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■■■ 絵が語る 2016.1.12 ■■■


ボッティチェリの魅力は何処

ボッティチェリ(1445-1510)の作品を20点を集めた展覧会が開催される。 (2016/1/16〜4/3@都美術館[→])

ラーマ家の東方三博士の礼拝、磔刑のキリスト、書物の聖母、バラの聖母、を鑑賞できるだけでなく、絵画工房の主や弟子の作品等も眺めることで全体像がつかめるとの触れ込み。

一年前にも、「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」展。
 (2015/3/21〜6/28@文化村[→])
こちらは、メディチ家の興亡もからめた歴史的位置付けを重視した企画。目玉作品は、聖母子と二人の天使、受胎告知、聖母子と洗礼者聖ヨハネ、キリストの降誕。

ただ、素人的には、どちらもキリスト教の宗教画がウリのように映る。ルネサンス期の作品といっても、宗教画である以上は、ある一線を越えることは不可能。
せっかくのルネサンス期なのあから、その手の枠が嵌められていそうな絵画ではなく、宗教的に弾劾されるギリギリ迄の表現が可能なギリシア神話を題材にした作品を見たいもの。それが本当にギリシア文化復活を目指したものかは、浅学の身にはよくわからぬが。

従って、ボッティチェリの代表は、どうしても「春/La Primavera」にならざるを得ない。

コレ、実に不可思議な絵なのだ。
描かれている神々ばかりに目が行くが、Elena Caprettiの解説["Botticelli" Giunti Editore Firenze Italy 2002]によれば、約500の植物が描き込まれ、花としては190種類。春3〜5月のフローレンスの状況なのだろうから、メディチ家の広大な庭園を描いていると見るべきなのだろうか。あるいは、フィレンツェ一の都市としてのアイデンティティということか。
よく知られるように、描かれている神々については様々な見方がある。それはこの絵をどうとらえるかとも繋がる訳で、要は、それがよくわかっていないということ。
 上部 弓矢を番える目隠しキューピッド
 中央の高い位置 ヴィーナス
 右端 青肌のゼピュロス(春告げる西風の神:クローリスに恋心)
  隣 クローリス(花の女神に変身する前のニュムペー)
 右側 フローラ(花の女神:薔薇の花を撒き散らす。)
 左側 三美神(魅力、美貌、創造力)
 左端 オレンジ園を護るマーキュリー(神の使い)

ともあれ、これらの絵画はキリスト教の事績とは無縁。マ、だからこそのルネサンスな訳だが。

ただ、「春」だけ見ていてもよくわからないところがあって、「ビーナスの誕生/Nascita di Venere」と対比的に眺める必要があるとされる。どう見ても題材が共通だからだ。
こちらの絵では、中央のビーナスは貝殻に乗って裸体を晒しており、そのすぐ右では、時(季節)の女神ホーラビーナスに紅の衣をかけようとしており、左側は、ゼピュロスと妻となったフローラが風に乗りながら薔薇の花を撒いている。

つまり、春は着衣であるから世俗で、誕生は天上と見る訳である。くどいが、キリスト教の天とはおよそ無縁。
それに誕生のヴィーナスや、春の三女神の顔立ちに、シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチというジュリアーノ・デ・メディチの愛人の面影を感じる訳だし。もちろん、ボッティチェッリがポートレートとして描いているから確認可能なのである。[→@MMA]・・・小生の感覚では、美人というより、理知的な魅力的な女性に映る。これぞ、ルネサンスの華と言ってよいのでは。
そう見えるのは、着衣や装飾に形式に従っている様子が見えない点が大きい。それに、洞察力がありそうな目線も魅力的。その上、ベタ一色の背景であり、浮世絵のように輪郭が明瞭とくるから、姿が浮き上がってくるので、そこに力を感じるからだろう。これぞルネサンスとはいえまいか。
そんなことをついつい考えてしまったのは、フィレンツェを追放されたダンテの「神曲地獄篇」挿絵"La Carte de 'Enfer"の存在感が圧倒的だから。[→]
宗教的には、まだまだゴタゴタ状態。従って、足を踏み外せば、火炙りの処刑が待ち構えている時代だったのだ。
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