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■■■ 曼荼羅を知る [2019.1.27] ■■■
[1]胎蔵曼荼羅 大日如来

展示場で曼荼羅を拝見する機会が結構あるが、素人と言うか、不信心者にとっては、仏様の段飾りのようにしか見えず、いつも気になっていた。
空海がどうしても曼荼羅を通して体得したかったからこそ渡海したのだろうから、言葉では言い尽くせない、イメージとしての概念が表現されている筈だと思うのだが、なにも伝わってこないのだ。少しは感じ取ってみたいものだと常々思っていたのである。
そんなこともあって、多少は、解説を読んだりもしたのだが、浅学の故もあってさっぱりピンとこない。マ、そこらは秘密だからこその密教だから止むを得ないだろが、真に残念なこと。
この調子で行くと、いくら眺めても、さっぱり鑑賞した気がしないのである。
そこで、どういうことか自分の頭で考えてみることにした。

なんと言っても、密教の核は大日如来なので、先ずそこらから。

絵図は以下のような段組み構成になっている。中央の正方形の一画は「中台八葉院」と呼ばれており、花弁八枚が開いた蓮華。それぞれの花弁の上に仏が鎮座しており、花の中心(蕊)には大日如来。天竺の感覚では、心臓の象形になっているらしい。

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┼┼┼┼│ ←中台八葉院
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まず、ここが最初のバリア。
釈迦如来ではないからだ。

ところが、花弁上の仏様はお馴染みの菩薩ばかり。
 普賢菩薩
 文殊菩薩
 観自在菩薩
(観音菩薩)
 彌勒菩薩

ただ、4如来は馴染みが薄い名前も。
 宝幢如来…脇侍:普賢
 開敷華王如来
…脇侍:文殊
 無量寿如来
(阿弥陀仏)…脇侍:観音
 天鼓雷音如来
…脇侍:彌勒

大日如来だけは、その姿が如来的ではなく菩薩的。それがかえって、位置付けかわかる気がする。つまり、信仰の世界における唯一無比の法"王"ということ。

歴史的に見れば、こういう流れか。
 釈尊 大導師
 ↓
入寂
 仏塔
…舎利
 ↓
 法輪+仏足
…瞑想用シンボル
 ↓
 釈迦如来
(釈迦牟尼仏:悟りをひらいた釈迦族賢者)
 ↓
 第七仙人
(過去仏7番目)
 ↓
 毘盧舎那仏
(法身)
 ↓
 大日如来
(摩訶毘盧遮那仏)

752年開眼の東大寺大仏は「華厳経」蓮華蔵世界の教主で絶対的な仏の像。右手は施無畏印FONT size="-2">(畏れをなくすための姿勢)で左手は与願印(願いを聞き届けようという姿勢)
一方、大日如来<は諸仏の根元であり、宇宙を仏格化した思弁的な仏。身は黄金色で法界定印(坐禅の組手:三昧の境地に入るため)を結ぶ。

大乗仏教として、発想の転換を図ったことがわかる。出家修行者は世情の姿のママだが、悟りをひらけば、虚飾である立派な衣服装飾品は邪魔であるとは考えず、国王的リーダーシップを発揮し修行に励みながら衆生救済に邁進すべきと考えるのであろう。高邁な理想論の追求から、社会の現実に合わせた対応路線へと移行したということか。

そうなると、「中台八葉院」の意味も見えてくる。
ここは、修行者が原点的に観想すべき世界ということになろう。小生のイメージでは、先ずは大日如来の根本姿勢を自らのものとすることが出発点となる。宇宙を差配する太陽神への全面的な帰依ありきとの思想と言うことで。
そうなれば、次は、宝幢如来の如くに皆を組織化して迷いの元を叩きのめす行動に出るのは当然の流れ。ともあれ、決意して動くのである。そして、修行三昧の境地に入る。そのかいあって、ついに悟りをひらくことができた。堅固な精神で光を放ち、衆生の苦悩を解き放っていかねば、となろう。最終的には、涅槃の境地に入る訳だ。真の教えを広めていくために、地に足をつけた形で大胆に布教を進めることになろう。・・・と言うようなストーリーを感じさせる布陣である。但し、仏の対応については、小生は勝手に解釈したい。

(参照 ママ引用でなく改変していますのでご注意のほど) 越智淳仁:「図説・マンダラの基礎知識―密教宇宙の構造と儀礼」大法輪閣 2005年

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