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■■■ 曼荼羅を知る [2019.2.26] ■■■
婆羅門 [5] 原始信仰復活

毘紐天(びちゅうてん)と言われても、とっさに、天部にそんな尊像があったかな、と思ってしまうほど名前が一般的ではない。しかし、現代インドで実質的国教化が進むヒンドゥー教では、事実上の最高神扱いされるビシュヌViṣṇuを指す。
仏教では、色界三禅天第三天の十八天の第九番に位置しており、色界三禅天の第三天で、那羅延天と名付けられている天である。
ただ、その発祥は曖昧模糊としている。と言っても、容易に想像は搗く訳で、密教曼荼羅の登場が引き金となり、非「ベーダ」教の最高神として神話のヒーローを神格化させ、それらを習合することで、祭祀者階級外の神を頂点に立たせたのだろう。・・・という話をした。

ただ、日本では、毘紐天の名前は知られていなくとも、その妃のラクシュミーLakṣmīの方は古代からお馴染み。吉祥天だ。愛の神Kamaの母だからかも知れないが。
「ベーダ」教の概念的最高神のブラフマーBrahmāこと梵天にしても、名前だけはよく知られているものの、信仰対象としては妃の辯才天ことサラスヴァティーSarasvatīの方が一般的。こちらも女神人気なのである。

こうした態度が天竺から伝わったのか否かはよくわからないが、インドの神々は結婚していて一人前的。と言うか、男神の力の源泉は結婚した女神という思想がいきわたっているからだ。妃なくしては尊崇対象神にはなれない風土なのだ。場合によっては、立派な男神より、その根源の妃を深く信仰する姿勢が生まれたりする。

その根源は、おそらく古代型の地域毎地母神信仰であろう。

その信仰はインドの人々の根っこにあるものらしい。ビシュヌに次いで信仰が盛んなシヴァŚiva/湿婆の状況を見ると、それが歴然としている。

日本では大黒天とされるが、名前を意味で翻訳しているだけにすぎず、見かけも祭式もインド様式とは全くかけ離れている。
シヴァのシンボルが現代のセンスからすれば常識を通り越した反社会倫理そのものの表現に映るからだ。寺院で超巨大な男根を崇める上に、家庭でも飾られるのだ。しかも、女陰を象った台の上に屹立した形状。祭祀ではそこにミルクを掛けることになる。日本にも性器崇拝はそこここに残ってはいるものの、陰に隠れた存在。大ぴらなインド流に、そうそうついていけるものではなかろう。
従って、日本では、大黒様は頭巾と大きな袋で亀頭と陰嚢をそれとなく暗示するに留めた訳だ。天竺では、最高神[イーシュバラIshwara/伊濕伐羅(自在天) or マヘーシュヴァラ/摩醯首羅(大自在天)]競争で勝ったと自称する神だから、そのご利益は垂涎モノであり、なんとしても招来したい神だったのだろう。

そのお姿も一般人とはかけ離れている。インドの風俗からすれば、各地を巡る修行者の格好そのもの。苦行のタイプや生活の場は様々だから、尊像の表現形態も一様ではない。菩薩像のように結跏趺坐して瞑想する場合もあるし、苦行や呪術行為の最中だったり、激しく踊っていたりもする。ヨーガや舞踏等の守護神ということで、TPOに合わせた図絵が必要になるのだろう。

密教曼荼羅的見地からすれば、その特徴は額の第三の目だろう。そして三日月の装飾具。持物は三叉の槍と太鼓。

この自称三界主宰の大自在天(シヴァ)と配偶者の烏摩妃(ウマー)を折伏したのが、降三世明王@「降三世成就深密門」。胎蔵曼荼羅持明院五尊メンバーであり、金剛界曼荼羅降三世会でも登場するが、尊像としては下記配置の東寺講堂の立体曼荼羅立像が一番有名だろう。
この像では、両者ともに足で踏みつけられ、地べたに伏している状況。反抗的とは言え神を敷くのはかなり特殊な表現と言えよう。(但し、胎蔵曼荼羅像では踏みつけ部分は無い。)・・・
天部______明王部______如来部____金剛菩薩部___天部
広目___大威徳_金剛夜叉__不空成就________多聞
帝釈______不動________大日_____波羅密多___
増長___軍荼利_降三世___阿弥陀__宝生________持国
この明王のお姿だが、正面三目憤怒相の四面八臂で、小指を絡め腕を交差させる独特の手印。他の各手には持物。
  三鈷金剛杵 三鈷戟
  矢 弓
  剣 索


密教はそこまでしたのだが、結局のところ、シヴァ神を尊崇する勢力は強大化してしまい、仏教は実質的にビシュヌ勢力に飲み込まれてしまう訳である。当時の王にとっては、戦勝祈願の呪術が最優先だったろうから、軍勢を鼓舞する上で大日如来や梵天ではなく、先ずはシヴァ神ということで軍配をそちらにあげたのと違うか。国際交流の盛んな都会以外では仏教の影響力は小さかったに違いない訳で。そう考えると、シヴァの"三界主宰"とは仏教の思弁的な三界世界ではなく、民衆が即理解可能な天・地上・地下と考えるのが自然だ。
(現代のヒンドゥー教では、3最高神併存とされているが、他の2界を任せているだけで、主宰はあくまでもシヴァとの論理ではあるまいか。天は真理概念神の世界なのは自明だし。もっとも、戦争がなければ、現実信仰では、叙事詩の影響力が絶大なビシュヌ優位になってしまうと思うが。)

シヴァ神は人々の精神古層に触れたと見てよいだろう。その姿は現代から見れば異様だからだ。
 乗り物は牡牛のナンディー。
 虎の皮を腰に纏うのみ。
 首にはコブラを巻く。

インド象、インドライオン、虎、大型猪がそこらじゅうに棲息しており、外出して遭遇すれば命は無い訳だし、家にいても物陰に蛇がいたりする。藪でもあればコブラや大蛇がいつ何時やってくるのかわからない。釈尊の説法時代になっても、集会には蛇除け呪が不可欠だったのだから。シヴァの出で立ち姿は、そんな時代の勇者を彷彿させるではないか。
婆羅門階層はすでにベジタリアン化しており、人身御供などもっての他で、禁忌的な律で自らの行動を縛っていたが、それは古代の超人が率いている部族の呪術社会の風習とは余りに違いすぎる。古代の息吹を取り戻す動きが始まってしまえば、部族間で定期的に行われていた呪術的カニバリズム抗争や、超人を目指した野獣的徘徊が横行しかねまい。

シヴァ神は、ビシュヌ神より、ずっと古層の信仰を掘り起こしてしまったのである。
 ・ニーラカンタ…天地創造:乳海攪拌
 ・マハーカーラ/摩訶迦羅/大黒天
 ・ナタラージャ(舞踏神)
 ・パシュパティ(獣神)…魔象生皮を纏って魔族と戦闘
 ・バイラヴァ(畏怖・殺戮の神)…ブラフマーとの戦闘
 ・マハーデーヴァ(偉大な統率神)
 ・シャルベーシャ(羽獅子)…ヴィシュヌ化身の人獅子と戦う.
 ・ガンガーダラ…ガンジス川の流れを受け止める.
 ・シャンカラ(幸福神)
 ・カーラ(時間神)

シヴァ神は、"創造と破壊の神"との解説が一般的だが、それにたいした意味はない。日本の状況を考えれば、古代の神や精霊としては当たり前の特性だからだ。力のある神では、それが極端で目立つにすぎまい。喜んでもらえれば、篤いお返しが期待できるが、怒るような原因を作ったりすれば何をされるかわからんというのが当たり前。特に、インドでは、古代から時間軸的にも輪廻観が広がっていたようだから、社会がある時完全に壊滅し時間はかかるがそれが再生していくと考えていた筈である。神はそれを成し遂げるのだから、最高神なら、一旦、世界を破壊し尽くし、ゼロから創造し直すと考えて当然ではなかろうか。それこそがまさにインド哲学の原点と言えなくもない訳で。
極端な破壊話が生まれるのは、密教曼荼羅の影響もあるかも知れない。須弥山を暗示した図絵であり、それは、古代から続いてきた途方もない距離や時間感覚を呼び覚ましたに違いないのである。そんな底流を掘り起こしてしまえば、それが奔流化してしまい、後は如何ともし難い状況になる。

当然ながら、妃も原点に戻る訳である。
大陸ならどこでも、河川神が重要な訳だから、源流域のヒマラヤ神の娘、パールヴァティーPārvatī/雪山神女/烏摩妃
しかし、その本質は化身の方。
 ・ドゥルガーDurgā/難近母…三目十八臂の戦いの女神
 ・カーリーKālī/迦利…血と殺戮を好む戦いの女神
地域の土着地母神への血の供犠は古代当たり前だったというに過ぎまい。
尚、カーリー待女のダーキニー/荼吉尼天は日本に渡来し稲荷神と化したとされている。
ちなみに神話の親族は以下の2尊。インドではガネーシャは極めて人気がある。
 ・ヴィナーヤカVināyaka/毘那夜迦(障礙神)
  ⇒ガネーシャGaṇeśa)/象頭神(大聖歓喜天)…シヴァ長男
 ・スカンダSkanda/室建陀/韋駄天…シヴァ次男(カールッティケーヤ)
  ⇒クマーラKumāra/鳩摩羅天
   クマーリー鳩摩羅天妃)/鳩摩利


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