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■■■ 曼荼羅を知る [2019.2.28] ■■■
天部 [2] 吉祥天女

毘沙門天とくれば、吉祥天は外せない。善膩師童子を加えた三尊像だけでなく、子ではなく不動明王や釈迦如来の図絵もあるからだ。(尚、別称の功徳天として、胎蔵曼陀羅虚空蔵院の千手千眼観自在菩薩の右脇侍に登場している。)

曼荼羅としては、有名な作品が鑑賞できる。
  →(C)MOA美術館 吉祥天曼荼羅図 鎌倉時代
教王護国寺(東寺)伝来品とのこと。その図絵構成はこんなところ。@阿地瞿多 訳:「陀羅尼集」巻第十諸天・・・
[最上部左右]散華供養天女
[天頂]千葉寶罐
[上部]五色雲上六牙白象(象鼻絞馬腦瓶)
[後背]百寶華林+七寶山
 中央主尊:吉祥天(纓絡環釧耳天衣寶冠)
  左手:如意珠
  
右手:施呪無畏
 
脇待左手側:梵天(手執寶鏡)
 脇待右手側:帝釈天
 
守護:四天王
 
[下方] 白衣呪師(手把香鑪)
[最下部]架橋蓮池内に紅白開花蓮華

護国経典三部の一つ「金光明最勝王経」(他は「法華経」「仁王経」)の転読誦会が国家行事「吉祥侮過」である。諸国の国分寺にも吉祥天画像が置かれ祭祀が行われたという。その後、武家の時代になるとこの祭祀は下火になったようだ。(弁才天[サラスヴァティーsarasvatī]に人気が集まったから吉祥天の影が薄くなったとの解説が多いが、五穀豊穣祈願の主対象尊でなくなったからだろう。)

吉祥天はヴィシュヌ妃[ラクシュミーLakṣmī]の中国名だが、密教では毘沙門天妃になる。(「金光明最勝王經」卷第八大吉祥天女品第十六/大吉祥天女増長財物品第十七にはそのような話は全く記載されていない。「金光明經」功コ天品第八も。)
像のお姿も中国貴婦人であり、天竺的な風合いを全く感じさせない。ここは結構重要なポイントであり、毘沙門を頂点とする四天王と吉祥天女はインドの風土から脱却したことを意味していよう。

尚、小生が見たところ、「金光明經」の主旨はこんなところ。
 全体的には、四天王・女神・地神への祭祀を行うことで、国家安泰実現。
 個別的にはこのようなトーン。
  大弁天神第七:勉強や大衆への布教を頑張れ、手伝うゾ。
  功コ天品第八:不便な生活はさせませんゾ。
  捨身品第十七:仏舎利は来世にかけて重要。


吉祥天の父は「法華経」に登場する徳叉迦Takṣhaka龍王(那伽Nāga之王)との説もあり、散支夜叉/半支迦夜叉王とも。母は夜叉の鬼子母神/訶黎帝母。(「金光明經」では、この龍王の子は七面天女とされているとか。もちろん、日蓮宗の守護神である。)
系譜的にはかなり錯綜しているように思えるが、唐代の書「酉陽雑俎」を読んでいると、なにが起こったのか想像がつく。
まず押さえておくべきは、毘沙門天と対になっている点。ヴィシュヌ妃がわざわざ化身して財富の神の妃になるほど重要とは思えないが、それは「ベーダ」教的な自然神から発生した方位神感覚があるから。
密教の方位神はそれとは全く異なり、具体的な四方からの脅威に対抗する武神が方位神なのである。ベーダ教の方位護身は密教では無視され、あくまでも土着のその地を護る神が起用されたということ。

そう考えると、おそらく、発祥は西域のオアシス都市国家である。唐代であれば、該当するのはソグド人やホータン辺りの種族。シルクロード西の交易拠点は古くから大いに繁栄しており、富貴そのものの生活をしており文化芸術のレベルも高かったのである。オアシスの収穫物は多種多様でしかも美味しいから、本来的には太鼓腹体形だった筈。当然、外部勢力の垂涎の的となるから、都市連合を創り、武力確保には余念がなかっただろう。

夜叉とはそのような人々を指すのでは。

各都市は、ファミリー一族がすべて取り仕切る体制だったのかも。従って、他都市のファミリーとの紐帯が仏教になっていた可能性もあろう。なにせ、"毘沙門天とその家族"というコンセプトが打ち出されているのだから。仏教の場合、個人の悩みの元凶となることが多いから、できる限り家族的尊像を持ち込まないようにしていると見ていたが、夜叉族は別なのだ。鬼子母神も自分の子供だけを重視する血統主義者だったようだが、都市国家存立基盤がファミリー一族ということがありそう。

都市国家毎に王と王妃への仏教ベースの尊崇祭祀が行われており、吉祥侮過会的な色彩が強くなっていたのではなかろうか。仏教布教はインターナショナルな交易基盤造りと同義でもあったろうから、その信仰は深いものがあっただろう。
あくまでも、都市国家の富貴実現の祭祀ではあるが、それは都市国家の安寧あってのこと。国家存立基盤を揺るぎないものにするための国王と妃の最重要行事とされたに違いない。
その祭祀のための曼荼羅は極めて重要なものだったろうし、仏舎利尊崇も深いものがあったろう。

仏教によって繁栄を約束されたような交易小国家の連合体だが、唐代の支配階層にとっては四天王と吉祥天尊崇こそが、国家鎮護の決め手に映ったに違いないのである。
従って、吉祥・毘沙門は切ってもきれない関係として扱われるのは当たり前。インドではそのような感覚は生まれまい。

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