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■■■ 本を読んで [2014.8.18] ■■■

仏教の社会性を考えさせられた

マックス・ヴェーバーと言えば、もっぱら「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だが、「ヒンドゥー教と仏教」(1916年)」や「儒教と道教」も示唆に富む著作である。
仏教を考えてみたいなら、山のようなハウツー本を読むより、先ずはヴェーバーかと思って読んでみることにした。

仏教に興味があるというよりは、世俗勢力が宗教勢力を抑え込むことが難しくなってきた事例が目立つので、仏教はどうなのか気になったということ。

もともと、イスラム教は祭政一致を旨としているから致し方ないが、それを煽る動きが急なのだ。小生など、いかに悪辣な独裁政権だろうが、世俗主義なら、原理主義よりはましという考え方だが、それはもう通用しないのである。
米国内の宗派勢力地図が大きく変わりつつあることもあるのか、民主化の御旗を掲げさせ、宗教対立の火をつけたい人が大勢いるようだ。
こまったものだが、いかんともし難い。

おそらく、仏教だけはそのような流れには無縁とはいくまい。クワバラクワバラ。

実際、ミャンマー[旧名ビルマ]では仏教原理主義者(独立運動母体)とイスラム教徒(旧宗主国側勢力)の武力衝突が収まらないようだし。
スリランカも今後どうなるか予断を許さず状態では。宗教対立はいつ発生しておかしくないの国だから。
・・・仏教徒(アーリア系シンハラ)、ヒンドゥー教徒(南インドからの移住タミル)、イスラム教徒(ムーア)、キリスト教徒(宗主国との混血)、それに、山の神信仰者(土着先住民族)。
聖なる山にしても、それは精霊の住む地と見なす訳にはいかない訳で、それぞれ、仏足跡、シバ神、アダム、聖トマスの地となるようだ。従って、対立させたいなら、仕掛けは簡単。

それはそうと、ヴェーバー本は流石。
釈迦本来の思想がわかった気になった。
書店にわんさか並ぶ、ご都合主義的な仏教解説本とは大違い。装丁はピンキリだが、ざっと序と目次を眺めた限りでは、どれもこれもハウツー本の類に映っただけだから、言い過ぎではあるとはいえ。

なんといっても、原初の仏教には「救済」がないという指摘が重要。そんなことは当たり前だが、こうした本を読まないと、つい忘れがち。
そういう点では、初期の仏教は、日本の宗教風土と波長が合ったと言えそう。古事記冒頭の記述と感覚的には同じで、創造神の有無に言及する気はさらさら無いのである。もっとも、渡来したのは、変身した中国仏教だった訳だが。

ヴェーバーに言わせれば、それは、
 ・・・という問題に対し、絶対的に無関心な倫理
ということになる。
従って、救世主が登場することはあり得ない。なんといっても鋭い指摘は、以下のくだり。
 釈尊自身が祈ったということも聞かない。

簡単に言えば、初期仏教とは「自業自得」の思想。

葬式仏教から抜け出すために、僧侶も社会活動をすべきとの話をよく耳にするが、考えてみれば、それは筋違いかも知れぬ。
釈尊の考え方とは正反対な気もしてくる。彼岸への渇望も、現生への執着も同じようなものと考えよというのだから。それこそが「中道」なのだ。
社会活動とは、概ね、理想を追求する献身と同義であるが、その手の取り組みに力を入れるということは、悟りに達する道から外れかねないということになりかねないのである。

釈尊の考え方からすれば、一般的な倫理感からつい考えがちな「罪」という発想からの離脱が出発点。社会に尽くすということで思い煩うのは逆方向に進むことを意味しそう。
この世は「諸行無常」ということを理解することこそが、核心的課題なのだから。

つまり、原始仏教における救いとは、この「諸行無常」から脱すること。どう考えても、それは、「死」の安息世界に他なるまい。
そういう点では、葬式仏教でも十分ということになろう。
ただ、世間一般に通用する救いである、天国に呼ばれて永遠の「生」を得るという終末とは全く違う。それとは正反対で、生への渇望を打ち切ることこそが救いになるという考え方。

いうまでもなく、そんなことが可能なのは、僧侶のみだろう。・・・
 原始仏教は
 実際に決定的なほとんどすべての点で、
 イスラーム教にとってとほぼ同じく、
 儒教にとっても性格的な対極である。
 それは特殊に非政治的な、
 かつ反政治的な身分宗教であり
 あるいはもっと正しく言えば、
 知的訓練を受けた
 遊行する一つの托鉢僧侶の宗教的「技術論」である。


そうなると、誰でもが、ヴェーバーの抱いた疑問を感じざるを得なくなる。出発点で、本質的な矛盾を孕んでいたのは間違いなかろう。
 仏教は地上最大の伝道宗教の一つとなった。
 それは驚くべきことである。
 なぜなら純粋に合理的に見れば、
 それをこのように決め得たかもしれない
  何の動因も発見できないからである。
 自分自身の救済だけを追求し、
 そしてそれ故に、
 もっぱら自分自身だけ注目する僧侶が、
 他人の魂の救済に係わり、
 伝道に努力するようになった機縁は
  なんであったのか。


解脱を目指すのだから、カースト的な身分制度を超越している思想であることは確か。しかし、社会政策的な目標は全く持ち合わせていないし、社会的な運動との係りも無い。家族を捨て、コミュニティの動きにも心を動かされないことが信仰の出発点なのだから、社会革命とは無縁な宗教ということになろう。
そもそも、働かない階層としての僧侶の存在が確定していなければ、活動自体が成り立たないのである。従って、その基本姿勢は、身分制度肯定と言わざるを得まい。
その後、大衆救済の大乗仏教の流れが生まれた訳だが、当然の話ではなかろうか。

結局のところ、仏教はインド大陸ではマイナーな地位に陥り(数字を確認していないが信者は人口の1%未満か。)、中国では中華思想に駆逐されてしまったが、そもそも発祥が知識層対象の哲学であり、大衆相手の世界宗教に向いていなかったということだろう。(血族宗教でもある儒教を基盤とする中華思想に食い込んだこと自体が奇跡ともいえる。と言うか、中華帝国の翳りの時期に伸長したということかも知れぬが。)
救済宗教であれば、大衆の支持もあろうが、高い地位にある僧侶を敬えと言われても、その根拠は自明ではないのだから。

それはカンボジアの悲劇が示した通りである。仏教徒だらけの国だった筈なのに、突如、クメールルージュが登場し、「働かない」僧侶を一番の目の敵にしたのである。全人口の数割が殺戮されたと推定されているのだから、僧侶はそんな数字では収まるまい。
これを見ると、上座部仏教は本当に浸透しているのか、疑問が湧かないでもない。
ビルマ仏教の場合、寺院は、ブッダ信仰の地というより、精霊(日本ならさしずめ御霊かも。)への祈祷所としての役割が第一義的のようだし。タイ仏教にしても、民主国家の体裁上、制度的な国教ではないが、事実上、国まるがかえ。僧侶が国教化を要求するお国柄。

日本においても、初期仏教の面影がほとんどない状態と言ってよかろう。
なにせ、ご本尊が阿弥陀如来で、教祖のご尊影を除けば、他の偶像信仰を排除する宗派の信徒が一番多いらしいのだから。こうなると、救済型の一神教そのもの。ヴェーバーの描く原始仏教からほど遠く、キリスト教に極めて近い信仰と言わざるを得まい。
法華経信仰の教団も経典宗教で、釈尊及び宗派教祖と高弟を敬うが、それ以外には目もくれぬということのようだ。これは、聖書信仰と同じ姿勢と見てよかろう。
これらは、仏教は多神教でもあり、他宗教に寛容との、一般に広がっているイメージとは大きく違う。

生活基盤なしの知識階層の哲学的宗教から、大衆救済へと方針を転じれば、必然的にこうなるということかも。
当然ながら、こうした姿勢を続けていれば、いずれ社会運動化せざるを得なくなろう。釈尊の考え方とは正反対。

(本) マックス・ヴェーバー[深沢宏 訳]:「ヒンドゥー教と仏教―世界諸宗教の経済倫理〈2〉」 東洋経済新報社 2002

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