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■■■ 本を読んで [2014.9.25] ■■■

「スープ」は食べるもの

「スープ」は食べるものという話はくどいほど聞かされる。
小生はそういう時は、何故そうなのか質問するクチ。当然、いやがられる訳だが、たいていは「文化とはそういうもの」という答以上のことは返ってこない。そして別な話題に。

  「こんな情報知ってる?」
  「えー。そうなの。」
という会話で終わるのが礼儀とされている訳だ。たとえ知っていても、合わせないと、碌なことはない。
知的な遊戯的会話がお嫌いな方が多いから致し方ない。
そういう方々に始終配慮しなければならないとは、まことに残念な文化と言わざるをえない。

そう感じている人達には、比較的嬉しい本が、今回とりあげる「SOUP:A GLOBAL HISTORY」。
但し、宣伝文句は
"西洋と東洋のスープの決定的な違い、
 戦争との意外な関係ほか、
 最も基本的な料理「スープ」を実におもしろく描く。
"
であるが。

もちろん、この本は「スープは食べるもの」という回答を記載しているわけではない。「飲む」感覚でしかない日本人を読者に設定している訳ではないから当たり前。
と言っても、もちろん味噌汁も紹介されている。「一杯の細密画」として。いかにも西洋的な表現だが、それ以外に伝えるべき重要なポイントを忘れていないのが流石。・・・

 「味噌汁は
  一般家庭で昔から朝食として飲まれているほか、
  正式な宴席にも伝統的に供される。


それはともかく、「食べる」表現だが、この本を読めば理由はすぐにわかるのでは。

液体を「飲む」際、スプーンを使う人はいないというだけの話。
椀に口をあてて味噌汁の液体を「食べる」と言う訳がないのと同じ。ただ、同様な振る舞いであっても、粥はいかに液状でも飲むとは言わない。汁とみなしたくはないからである。そんなものを飲むなど沽券に係るからだろう。そこで、「啜る」と言ったりすることになる。
実に単純なこと。
尚、「スプーン」の語源は木端で、「キュイエール」は巻貝だという。従って、原初的には液体を口に入れる道具だった訳ではなさそう。

そうそう、「食べる」表現を話題にできなくなってしまうとガッカリされる方には、別なお話をお勧めしたい。
本来、スープは朝食で供されるものではない。

日本だと、朝一番の飛行機でのコンソメスープ一杯での腹ごしらえとか、最近だと、出がけにスープ屋さんで一杯という習慣の人もいる訳だが、もともとの食のスタイルとは似ても似つかないものなのである。

この本の良いところは、「貧困とスープ」あるいは「探検と戦争」の話が詳しい点。スープの本質を示唆するものに仕上がっているからだ。従って、それを読めば、発祥に関する見方が色々浮かんでくることになる。
と言うことで、小生は全く別な2つの流れが存在しているという印象を持つに至った。
1つは、社会の上層の人々が喜んで味わう手のスープ。
そして、もう一つは、キリスト教勃興以前の古い時代の食の流れ。膨大な数の奴隷への提供食糧としての、豆粥あるいは穀類粥。こちらは、奴隷労働の生産性向上のためにレシピが磨かれたに違いない。社会への影響力甚大である。

面白いと思ったのは、「薬としてのスープ」。ざっと通して眺めると、西欧中世の迷信的思想は中国文化流入にあるのではないかという気がしてくる。
なんでも食べるという食文化に注目すると見えなくなるが、要するに、垂涎の元である「生身の食材が持つ能力」を、それを食すことで頂戴しようという発想。
解釈の仕方では黒魔術に近い訳で、キリスト教の思考とはおよそかけはなれている感じがするが、そんな考え方で作られたスープも少なくないようである。

色々と考えさせられる本である。

(本) ジャネット・クラークソン/Janet Clarkson[富永佐知子 訳]:「スープの歴史(「食」の図書館)」 原書房 2014年7月26日

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