表紙 目次 | ■■■ 本を読んで [2014.10.3] ■■■ 国家レベルでの風土分類を考える 最近出版された、「国際比較本」を読んでみた。 著者が知られた人だから、どんな内容か見ようと思って。 先ずは、そこいら辺りを,クドクドとご説明させて頂こう。 比較研究といえば、よくあるのが、国連版。これ以上は無理だと思うほどの、網羅性。まあ、それ以上ではないと言うと烈火の如く怒る人が多そう。 無駄口はさておき、各国政府機関の統計的なデータがベースだから、安心して眺めることができるという点ではピカ一。ただ、それを複合指標にする場合の加工の仕方や、その意味付には注意を要する。政治性が希薄そうに見えたところで、意味づけた瞬間にそれは「政治」である。当たり前のこと。 但し、それは決して悪いことではない。 しかし、このような体制での研究以外は、データを揃えるのは大仕事。 当たり前だが、簡単なアンケート調査だろが、おカネは結構かかるもの。ましてや多くの国を対象としたりすれば、膨大な金額にのぼる。おいそれとできるものではない。 例えば、中国を対象国として取り上げたいなら、どうするか考えてみればわかる筈。広大な領土に人口13億なのだから。常識人なら、これを「十把一絡」で実証分析可能なのか悩むに違いないが、そんなことを気にしていたら論文は書けまい。実態は寄せ集めの母集団であっても、それを一緒くたにして「中華料理」をでっちあげるしかないのである。 一方、小国なら簡単とも言いかねるのだ。 アグガニスタンなど、どう見ても、多民族、多言語社会の上、部族毎に異なる文化を維持している。風土的に一枚岩の時代など一度もなかったのは明らか。しかも治安がえらく悪いとくる。そんな国だと、調査方法で結果は一変するのが普通。 これでおわかりになると思うが、予算内での母集団設定だけで、一仕事なのだ。 しかし、学者は、そこをなんとか切り抜ける力がある訳だ。 米国的な「実証」科学を仕事にするなら、仮説検証には必ずデータが必要となるから、この能力なかりぜば廃業の憂き目も有りえよう。 こうした状況を踏まえれば、「国際比較本」の土台となっている研究がどのようなものか、およそ想像がつくというもの。 期待されるような結論がでそうな研究だからこそ、プロジェクトが生まれたということ。 このことは、「国際比較本」を読む場合、最初に確認しておくべきは、名の知れた人々が関与しているか否かという点であると言えよう。 間違えてはこまるが、有名だからデータの信頼性が高いと言っているのではない。それは逆の可能性もあるから、たいした意味はない。 重要なのは、その研究が果たすと思われる「社会的意味合い」の方。有名な方が著者でああれば、その信条もだいたいわかるから、その線で本の位置付けを推定できるということ。ここは、とっても重要。それを踏まえて読まないと、下手をすれば洗脳されるからである。 ここまでが、前置き。長すぎたか。 要するに、どんな目的で書かれているか、想像がつけ易いので、読んでみたということ。 と言うことで、本の話に入ろう。 先ずは、比較の視点だが、幸福度。対象は中東を除くアジア各国。 軽装本なので、斜め読みに向きそうだが、そうではなかった。様々な学者が作ったテクニカルタームが紹介されたりする学者スタイルなので、スラスラとは行かないのである。もっとも、素養がある方だと、その手の流儀に慣れていて、かえって読み易いのかも知れぬが、素人の悲しさである。 と言うか、じっくり読んだところで、せいぜいが一知半解かも。 結局のところ、小生が興味を覚えたのは、「社会類型」。 幸福論と言うよりは、国政に対する姿勢の違いという感じもするが、なかなか面白い結果である。 もっとも、正確に言えば、自らの偏見と合致するように、分析結果を援用できるから。 そんなセンスで分類して、勝手に解説をつけてみた。如何かな。本にそのまま従っている訳ではないから、そのおつもりで。 (I群) ●先ずは、地域土着民の強い社会が存在する国々。 当然ながら、弱い政府になるし、政府の信用度は低い。世俗的な生活向上を求めるものの、それによって、社会の精神性を失うことをえらく恐れる体質が染みついている。要するに、ご近所さんとなごやかに生活することを重視する風土ということ。 その代表は言わずもがな。 日本 ●台湾も、軍事独裁を貫いた蒋介石政権時代とは様変わりして、日本と風土が似てきた。学生運動も、政府の施策を変える力がある訳だし、中国共産党との親密度を誇る政治が行われているというのに、トップが香港の民主化運動を支持すると発言せざるを得ない状況なのである。本省話語は北京語と単語レベルでも違ってきたようだし、繁体字を使い続けそうな雰囲気だから、この風土は続きそうな感じがする。 台湾 ●軍部独裁時代を終わると、もともと地域コミュニティが根付いている国はこのタイプになるのかも。 インドネシア ウズベキスタン、タジキスタン 思うに、このような「I群」の国々は、昔の社会感覚をそのまま現代に持ち込みながら、グローバル経済に対応し、物質的な繁栄を目指そうと考えていそう。 ただ、個人生活に宗教組織の方針が係るようになるとそうはいかないかもしれぬし、かつての軍部独裁政治的な風潮が舞い戻ってくる可能性もありそう。 ●特筆すべきは、国家無視の風土が根付いている国。「I群」類似に映るが、おそらく違う。 アフガニスタン 小生は、アフガニスタンは古代の体制が現代まで続いている類稀なる国家と見る。これを壊そうとする近代化の波が国土を覆うことは考えにくい。 藩主習合体としてのアラブ国家や、マハラジャの集まりと違い、部族長全員一致の大会議が国権の最高機関だった。王国といっても、高貴な一部族長にすぎない。選挙制度とは、部族長の指示に応じて個人が投票するだけのこと。大統領が「西欧化」のリーダーシップを発揮すれば、ほとんどの部族は反対方向を向くことになり、新たな国家体制への動きが始まるのは間違いなかろう。 どんな国だろうが、どんな思想の組織だろうが、部族文化を尊重して支援してくれるなら大歓迎なのは、おそらく数千年前から続いている性。それが現代にも適用されている訳で、それを理解する、高貴な部族出身者が大統領として知恵を働かせない限り、この国は安定すまい。信仰心篤き人々であることは間違いなく、カネは争うようにして頂戴するものの、それが第一義にある訳でもないから、後述する「IV群」の可能性もありそう。政教一致勢力が「国家」的に人々の生活を牛耳ることもアリのようで、そうなると、全く異なる体質とも思えるからだ。 (II群) ●次は、その真逆の弱い社会の国々。もちろん国権が強大。 血族や職種の価値観で生活しているため、地域でのまとまりは軽視されがち。表面的には、上記のグループは集団主義に移り、こちらは個人主義的に映るが、そういうことではなく、属する「集団」が土着的か否かの違いとも言える。氏族の利害は、地域社会の利害に優先するから、波風無しの統治はありえない。この風土だと、末端の実生活に政府はかかわりようがなかろう。 従って、世俗的繁栄を希求する流れが強くなると、無政府状態に陥りかねない。しかし、それでは国家は四分五裂化しかねないから、強権的な国家体制を構築することになる。 見かけの民主制度を取り入れることは可能だが、西欧的な民主主義とは異なると見た方がよいのでは。その典型はいうまでもなかろう。 中国 血族集団が組織運営にからむし、偶像化された人格神に世俗的な捧げものをすることで見返りを期待する信仰が根強いから、賄賂感覚も他国とは違うと思われる。道教の神々からして、官僚のヒエラルキー的構造に収まっている訳だし、統治者も、道教と本来対立的な儒教を統治原則とするから、西欧の民主主義政体に変えることはほとんど無理難題に近かろう。 ●大国ではないが、そのエピゴーネンとして生きてきた儒教の国も、ほとんど同じ体質と思われる。従って、民主政治の仕組みを真似ても、官僚の汚職や責任転嫁による生き残り策は減ることはなかろう。風土上必然だから、齟齬があると言わざるを得まい。それに、法治に重きが置かれる訳でもなかろう。儒教的風土下だと、法を越えた権力の制裁を当然の如く要求することになろう。それが実現すれば大満足との国民性ができあがっている筈。 韓国 儒教は中華思想の土台でもある。従って、国家として、「大国化」あるいは、「文化の中心地」として一歩踏み出せた感が生まれたりすると、国内中で絶賛の嵐が吹き荒れることになる。多かれ少なかれ、国家とはそういう性格のものだが、中国や韓国のように、血族重視世界を理想とする儒教統治観がそれにつきまとうと、他国とはかなり違った社会観になってしまう。 ●儒教でもなく、多言語、多民族の国家でも、「大国化」を目指せば、同じことが発生する。広義の血族と言えなくもない、厳格な身分制的な氏族制度の維持を重視すれば同じことになるしかなかろう。 インド 見かけ上、普通選挙制度の国家になったところで、人権という「個人」尊重の前に、先ずは血族や氏族の「誇り」が優先される社会なのである。 それなくしては、官僚による、巨大人口統治は難しいということでもあろう。 ●外部からみれば、大国風を吹かしている国には見えなくても、似た風土にならざるを得ない場合もあろう。文化的に排他的姿勢をとるか、エピゴーネンになるかは紙一重ということ。 モンゴル、(多分、北朝鮮) ネパール ●東南アジアの仏教国が中国的政体を真似したがる風潮もよくわかる。国家存立には、それしかないと感じるからだろう。 カンボジア、ラオス、ミャンマー (III群) ●物質的欲望は、コミュニティが成り立ってこそと考える人々の国。 そうはいっても、お金儲けは嫌いな訳ではない。 世の中、適当に合わせて生き抜くしかないと腹をくくっているとも言えよう。政治騒動があろうがなかろうが、それこそが日常という姿勢を貫いていそう。 政治体制が変わろうが、コミュニティが壊れるような方向に進むのでないなら、それに合わせていけばよかろうということ。民主主義といったイズム感は浸透しにくい社会であり、原理主義者も生まれにくかろう。 ただ、融和主義という訳ではなく、大国が必然的にかかえる原理原則主義的な動きが、コミュニティを支配しかねないとなれば、徹頭徹尾戦うことになろう。従って、I群とは親和性がありそう。 香港 マレーシア、タイ、ベトナム キルギスタン (VI群) ●上記とは、全く異なる国々もある。各個人の精神生活を重要視する人々が多数だと、独特な風土が生まれる訳である。 宗教は様々だが、政教一致へのドライブと、深い信仰は、現代社会では別モノと見た方がよいだろう。 ブルネイ フィリピン ブータン、スリランカ 排他的な原理主義を生む土壌はあると言えなくもないが、物質的生活を犠牲にするような思想が異端扱いされている限りは、そうなる可能性は低いといえよう。 ●しかし、異教徒が、敵の敵は味方ということで、そうした異端者を支援したりすれば、流れは一変する可能性は高い。政教完全一体化なくしては、異教徒から撲滅されるのではないかとの危惧感が生まれれば、原理主義者主導と化しておかしくないからだ。 すでに、その兆候が生まれていそうな国も。 パキスタン (V群) ●なにがあろうと「国家ありき」というのが、人工的に生まれたミニ国家。 個人生活に国家権力の意向が直接関与してくる。信仰に関係なければ、それは容認されるが、当然ながら、反撥する人もでてくるだろう。しかし、対立が先鋭化すれば、ミニ国家だけに、即、コミュニティ活動に支障がである。それを嫌う人達が住んでいる筈だから、権力が方向転換するなりしてコトを治めることになろう。滅多なことでは分裂の方向には進むまい。 シンガポール、モルジブ 本と直接的には関係ないのだが、つい思っていることというか、他国に対する個人的偏見を吐露してしまった。 そんな気にさせられる本ということ。 (本) 猪口孝:「データから読む アジアの幸福度――生活の質の国際比較」 岩波現代全書 2014年8月21日 本を読んで−INDEX >>> HOME>>> (C) 2014 RandDManagement.com |