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■■■ 本を読んで [2015.1.14] ■■■

初山羊飼いの姿が浮かんでくる

羊年ということで、古代オリエント世界の牧畜像を描いた家畜化論を読んでみた。
この分野の研究者が1997年に刊行した聖書世界を背景にした牧畜文化を論じた本と、同じ著者が、その後得られたデータをもとに再考した最終ヴァージョン論の2冊。後者は2010年の出版。

一般人にとって面白い本とは言い難いが、読み始めると、止まらない。引き込まれるのは、著者の主張を理解したいからというのではなく、自分の頭で家畜の始まりはこうだったのではないかと考え始めてしまうから。おそらく、それを合った構成になっているのだろう。そういう点で、実に楽しかった。

有力な家畜化論としては2つあるだという。
 1 群れごとの人付け
 2 追い込み猟
その辺りの解説満載だったかも知れぬが、読む方はそこに頭がいかない。自分勝手に仮説を考え始めてしまうからだ。お蔭で、まともに読まずに終わってしまう。

と言うことで、その辺りを書いておこうと思う。
ズブの素人が、さらに素人的な見方わざわざ書きたくなったのは、実は、この本の「聖書論」が余りに分析的だったからでもある。正直驚いた。それは、"科学者"としての家畜化研究者だからという訳ではないからだ。なにせ、この著者は、西洋史+文化人類学の専門家。聖書についての著作もあり、これらの本も、宗教的洞察力が発揮されているに違いないのである。しかし、それを全く感じさせない解析になっている上に、小生の聖書観とはかなり違うのだ。(聖書の話は、稿を改めて。)

従って、これは捨て置けずとなった訳。

ということで、せっかくだから、この本に倣って、家畜の始まりを描いておこう。以下、強引な見方も入っており、Recapとはほど遠いので、お間違えなきよう。

聖書の民における「家畜化」を考えるなら、最初に考えておくべきことは、"真の"家畜の定義。・・・人が群れで管理する、反芻用消化器官を持つ少産系草食動物と考えるべきだろう。ブタやトリはここには入らない。(両者ともに、定住農耕者生活圏に個々に入り込んでいる多産系家畜と言えよう。)ウマも落ちる。尚、正確に言うなら、山羊はまぎれもなき草食動物だが、本来的には木の芽/葉が主食なので、真性の草食ではない。しかし、家畜化の端緒は山羊だから、そこらまで拡張しておく必要がある。

ここで難しいのは、「群れ」という概念。西欧的には、簡単であり、それに該当する動物は自明だが、日本人にはさっぱり理解できないからである。
  <単数形→複数形>
 Dog→Dogs Cat→Cats
 Pig→Pigs Chicken→Chickens
 Cow→Cows Horse→Horses
 Sheep→Sheep Goat→Goats
言うまでもないが、日本語では「数」とは「量」を測る概念であり、モノを単数や複数で切り分けることはない。もともと、どのような生物にせよ、「集合」として認知できるからこそ名称が付く訳で、ある意味科学的なものの見方と言えそう。宗教観ともからむ訳だが。
ともあれ、聖書の民の家畜化を考えるなら、羊をじっくりと考えることにつきる。

この本で、上記のような指摘が直截的になされている訳ではないが、具体的に羊の群れの特殊性を実証的に示してくれているから同じこと。

ついでながら、ここでの家畜とは牧畜対象動物を指している訳だが、その「牧畜」という概念についても、はっきりさせておく必要があるようだ。この本を読んで初めて悟った。・・・
     【foraging】 → 【farming】
 動物 猟/hunting → 畜/herding
 植物 採取/collecting → 農耕/cultivating
この4象限分類は、当たり前のモノと思いがちだが、日本語の概念ではそうはならない。
   【かり集める
  場・・・熊狩り、鹿狩り、猪狩り
  浜場・・・潮干狩り
  山場・・・茸狩り、(紅葉狩り)
  甫場・・・稲刈り
   【まき放つ
  場・・・馬牧、牛牧
  苗場・・・稲播き
ここから、全く違う社会観が見て取れる。日本語は、動物も植物も分け隔てない世界なのである。なんだ、それだけのことでは、と言うなかれ。
湿潤な気候なので、羊の牧畜がうけいれられなかったと単純に考えるべきではないことがわかるのである。そう言うと、いかにも論理的飛躍に感じるが、実は当然の話。日本における牛馬放牧には、牧夫が群れを管理する発想は無い。「まき放つ」やり方が難しく、群れ管理を必要とする羊の飼育は風土的に合わない訳である。

シベリアのトナカイ放牧における姿勢と似ていると言えるかも。もちろん、聖書の民における牧畜の定義から外れる。
  ・乳利用は皆無である。
  ・繁殖管理はしない。(去勢無し。)
  ・半野生的な管理(家畜種と野生種は峻別できず。)
小生は、ここの「乳利用」か否かがクセモノと見る。ここが全面的家畜化進展の肝と考えられるからだ。これは後述。

南米の家畜を見ると、その辺りのものの見方をさらに深めることができる。・・・ラクダ系の反芻動物だが、羊・山羊や牛とは胃の構造が全く違う。分子生物学的には猪に近い動物である。
    (この地域では、野生と家畜が同一地域に棲息している。)
    ピクーニャ・・・[家畜化]→アルパカ
    グアナコ・・・[家畜化]→リャマ
ここには肉用家畜はいない。アルパカは有名で、もっぱら衣料用の毛が狙いの家畜だ。そして、後者は荷物運搬用の使役動物。いずれも、定住農耕者の家畜。牧畜に見えるが、羊の状況とは、全く違うのである。
重要な点は2つ。
  ・乳利用は皆無である。
  ・食肉用途の視点が欠落している。

さて、肝心な羊の牧畜だが、考古学的には定住農耕民が始めたことがわかってきたようだ。
    約10.000年前 麦栽培(湿地帯)
    約 8.500年前 山羊家畜化(定住農耕集落内)
     地域的には丘陵域に変化した。(天水農耕)
     それから遅れて羊が加わる。
     草原遊牧は開始はずっと後。
つまり、狩猟民による家畜化ではないのだ。「採取狩猟の移動生活型→遊牧と水場短期滞在の定期移動型→焼畑中心の半定住型→灌漑農耕定住型」というイメージを持ち込んで、狩猟から遊牧に発展したと考える訳にはいかないということ。

それを踏まえて、現代の羊牧畜の特徴を眺めると、原初の家畜の状況がおぼろげながら見えてくる。
  ・種付け♂隔離
  ・母仔の別途管理
  ・♂の間引き
  ・自発的なヒト帰属体質
なかでも印象的なのは、上記の条件を満たす家畜羊は、自発的に「群れ」を形成するという点。他の「群れ」と遭遇しても、混じり合うこともない。もちろん、ヒトの管理下で生活することを旨としており、逃亡して野生化することなどありえないのだ。柵や牧羊犬は効率向上のためのものということになる。

こうして眺めていると、乾燥地帯での家畜化の本質がわかってくる。・・・意図的に、山羊や羊を、ヒトが喰うべき動物とみなさなかったのである。つまり、家畜化は食肉動物飼育を意味していなかった訳だ。
食肉用途なら、あくまでも狩猟だったということ。樹林なら鹿類だし、野原ならガゼル。考えてみればそれは当たり前。山羊も羊も余りに少産で、肥育の労力も考えれば、効率が余りに悪すぎる。

ところが、南アメリカのアルパカのように、毛を調達したいなら、山羊や羊はいたって魅力的。(毛皮利用ではなく、毛を刈る道具があり、繊維を紡ぐ/Spanスキルもすでに身についていたとの前提で。・・・コレが家畜化開始の決め手。)この効率を上げたいなら、捕獲して肉も利用するのではなく、毛だけ刈り取ってすぐに逃がす手がある。これなら、ヒトを極度に恐れるようにならないから、持続的に楽な毛の調達ができよう。
(中世末に綿が渡来するまで、西欧は麻と羊毛の衣類。古代ギリシアからの伝統。もちろん、夏も毛の衣類。消耗品であり、毛は生活用材料として不可欠だったに違いないのである。)
そうそう、山羊の用途は、毛、皮、肉、乳、糞(燃料)、といったモノだけではなく、懐かせるのに成功すれば、山岳部の荷物運搬も可能なことをお忘れにならないように。体重比で2〜3割の荷重でしかないが。

但し、いくら毛刈を続けたところで、ヒトに懐く訳ではない。一寸見には、家畜化にはつながらない。
しかし、それを実現する方法がある。「母仔の別途管理」を始めれはよいのである。毛の調達が格段に楽になる方法でもある。・・・母から仔を奪い、囲いあるいは家屋内で「保護」するだけ。殺される危険を感じさせないのだから、母は、人質でもある仔に付随して自発的にヒトについてくる可能性は高かろう。仔は、ヒトとしばらく同居し、その間、育乳もヒトの管理下で行うことになる。そうなれば、家畜的なヒトへの「懐き」が母仔に生まれるのは自然な流れ。
母から見れば、仔を保護してもらい、育児が安全に行えるからこれは好都合かも。その仔も、十分育てば解放されるのだから。母は、毛だけは刈られるものの、草食み活動を含めて野生行動を止める必要は無いのであり、悪くない話。山羊の場合なら、その好奇心旺盛な体質からして、ヒトとお近づきになることを嫌がるとも思えないし。

こんなことが可能になったのは、山羊とヒトが共通植生環境に住める状況が生まれたから。それが、三日月弧地帯(イラク頭部のザクロス山麓-トルコのタウルス南麓-レヴァント)、乾燥地帯ではあるものの、雪解け水が存在する肥沃な地。ヒトも山羊も、水と塩無しには生きられないが、この地域内のヒトの定住域では、この2つが得られるのだ。従って、これらに安定的にありつけるなら、山羊がヒトと懇意になりたくなるのは当たり前。
(それに乾燥地帯の住民は、山羊は賢く、付き合うに足る動物と見ていたに違いない。好奇心は強いし、自分の意志を徹頭徹尾貫くからだ。食べれるか取り敢えず試してみるし、その取捨選択の眼はいかにも鋭い感じ。木の芽喰いのせいもあるが、汚れているというか、ヒトが踏んだだけの草でも絶対に食べようとはしない。

母仔の懐きが始まってしまえば、家畜化はあと一歩。成熟した牡を管理できればほぼ完成である。牡はもともと、母仔と共に生活しないので、捕獲さえできれば、手間がかかるだけでなんの困難もなかろう。野生の牡を出来る限り減らし、捕獲した限定頭数の牡だけを柵内飼育し、計画交配するだけのこと。ここまでくれば、雌主体の群れを実質的管理化におくことができる。

そうなれば、肉用化が自動的に始まることになる。群れの仔が育ってきたら、牡を間引く必要が生まれるからだ。この体制が整えば、「牧畜」の魅力は確実に高まる。草原近縁生活の問題は、燃料が欠乏する点だが、家畜の乾燥糞を利用できるから、万々歳となる訳だ。

こんな流れを考えると、家畜化の決め手は、人質的に仔を隔離飼育をすること以外に考えられまい。それは、「家畜」母乳生産開始でもある。簡単にできることではないが、孤児羊を異母乳で育てるスキルを習得さえすれば、そう難しいものではなさそう。そうなれば、仔の必要量を越えた分の利用が始まることになる。

ここら辺りの情景が自然に目に浮かんでくる。
毛の調達を任された家族は、おそらく下層民。ほぼ原毛生産だけで生活するするのだから、貧困に苦しんだろう。狩猟に関与しないのだから、肉を食べることなど滅多になかった筈。
しかし、唯一、自由に得られる食物があった。誰も使わなかった乳である。牧夫の家族は乳を飲み始めることで、貧困生活を脱することができたのでは。しかも、糞を集めた燃料も使える訳で、次第に豊かになり、地位も格段に向上していく。
生活に余裕ができれば、群れの数が急増することになるし、そうなれば、山羊脂や食肉の安定供給が可能となる。そうなれば、バターやチーズの生産も始まる。
そんな社会が生まれたということは、狩猟成果の低迷と、森の消滅による燃料欠乏にも直面していることを意味しよう。山羊牧畜は欠くべからずものと化す訳だ。
そこまで進めば、羊の出番である。肉生産の効率性という点では山羊より羊が優位だからだ。牧羊犬の登場となろう。ただ、羊が増えたといっても、その主用途は毛と肉で、肉も高級品は山羊のままだったと思われる。そして、乳生産は山羊とされたのでは。
乳製品や肉の食文化が社会に定着すれば、牛の登場である。大型動物は大量消費が難とし状態では非効率だが、そのバリアがなくなれば、効率性で優位に立つからである。基本はあくまでも乳製品生産ということ。

・・・どうだろうか、専門家の説を土台にした、こうしたド素人の見方。こんな話も、たまには面白かろう。

(本)
谷泰:「牧夫の誕生――羊・山羊の家畜化の開始とその展開」 岩波書店 2010
谷泰:「神・人・家畜―牧畜文化と聖書世界」 平凡社 1997


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