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■■■ 本を読んで [2015.6.30] ■■■

首狩り文化は理解できぬ

どうも、宗教関連の社会科学本は理解できぬことが多い。読み終わってなさけなくなる。
素養を欠くせいもあるが、用語の概念が途中でさっぱりわからなくなるのでお手上げ。別に、難しい用語だからというのではなく、頭が混乱してくるのだ。

首狩の本を読んでいて、そんな気分に陥った。つらいものがある。
いかにも労作という感じであり、恣意的な主張を繰り広げようというものでもなさそうだし、専門家しか読めそうにない本という訳でもないのだが。(フィールドワークと豊富な文献資料がベースで、広く渉猟紹介しているので学術的にも貴重で、稀にしか生まれない研究成果と見なされているらしい。出版社の宣伝文句を読む限り。)

要するに、なにがなにやら感を抱くのは、首狩りと首取りは、「一応」異なるとしながら、各例は一体どちらに該当するかの判定基準が読んでいてさっぱりわからないからである。ここが一番重要なところではないかと思うが、読めば読むほどわからなくなる。
そして、公開処刑の首切りは、首狩りとは関係あるのかないのかを考えるための素材も提供されていない。まあ、ここに触れるのは、一種のタブーでもあるから止むを得ないが。

特に、首狩りは生贄儀式の特殊形式なのか、全く異なる概念なのかを考えようとしても、色々な話が並んでいるため、かえって考えることができない。頭脳明晰者なら別なのだろうが、小生は読んでいて、フラストレーションがたまる一方だった。
なんのヒントもみつからなかったからである。

それは、小生の頭のなかに、偏見が住み着いているからかも知れぬが。どうしても、その観点で事例を考えてしまうから新しいものの見方ができない可能性は高い。

と言うのは、天(The 神)と個人が一対一の宗教圏では、首狩り族と共通する精神古層を大事に保ち続けている人が多いと考えるから。・・・家に野獣の首を飾って喜ぶとか、裏切り者をギロチンで処刑して喝采という姿勢を見れば、そうとしか思えないのである。
考えて見れば、乾燥地域での動物飼育民の感覚を大切に持ち続けているなら、そうなって当たり前。すべての生物を支配下におくことを神によって命ぜられていると言うことは、それに応えるためには、首を切り血を流す生贄を神に捧げる儀式はなくてはならぬものである筈。本来的には、こうした儀式は定期的に挙行すべきものだろう。言うまでもないが、その対象は、野獣、家畜、ヒト、すべて。命が下れば愛する自分の子供であっても差し出す覚悟ができていなければ信仰者とは言えないのである。身内でない"ヒト"、就中、敵対する勢力の首領を生贄として捧げることに躊躇を覚える筈がなかろう。そうした儀式挙行の結果として、神のお印を保持したくなるのは、自然な流れ。それこそが神のおぼしめし。
(殷墟[王墓]には羌族の斬首10体がまとめて埋葬されているが、どう見たところで首狩り以外のなにものでもなかろう。周-羌連合軍が成り立った理由はコレかも。)

この手の思想と、首狩りは無縁なのか、同根なのかが、気になる訳だ。
その議論なしには、この問題をいくら検討してもたいした意味はなかろうと考える訳。

要するに、アニミズムと首狩りの関係を云々するのは、たいした意味が無いということ。わかりにくいかも知れぬので、一例をあげておこうか。
ヒンドゥー教の前身の土着信仰がわかり易い。時代から考えて、おそらく、アニミズムだったと思われるが、ヒトは胎生生物とされていた可能性が高い。出芽生物(植物)と分類が違うだけで、命あるものとして同等と見なされていたようだ。(それが、輪廻哲学に結実したと考えられる訳。)
常識的には、このような風土で、命を奪うことの讃歌としか思えない首狩り儀式が行われるとは考えにくい。
(但し、それは素人の浅知恵でしかなさそう。タミールのシヴァ派ヒンドゥー教[最高神への絶対的帰依信仰:どう見ても一神教]には、聖者が最高神の要求に応え、我が子を殺して調理する話があるそうだ。)

しかし、普通はここに注目することになる。農耕民 v.s. 肉食人種というステレオタイプの主張で済ますことができるからでもある。
だが、首狩りが、はたして狩猟民の儀式を発祥としているのかは、なんとも言い難いところがある。と言うのは、縄張り意識から生まれたとするなら、狩猟民より土着の農耕民の方が強烈な筈だからだ。
狩猟民が定期的に周囲の部族に首狩りを仕掛けるのは、縄張り主張のためには不可欠。どちらかが絶滅するまで戦う事態を避けるためには最良の方法だからだ。ただ、それが奏功するのは、パワーバランス政治学が身についていることになるから、文化的に高度な社会が形成されていることになる。農耕社会より遅れているというより、農耕地域の政治風土から逃亡してきた人達の可能性もあろう。
なにせ、農耕地域での、水争いや土地争いは熾烈にならざるを得ないのだ。それを避けるなんらかの武力的強制を伴う仕組みがあった筈で、それが「首狩り」より心地よいものだったかはなんとも。

読んでいて、つらつらとそんなことを考えてしまった。よく読めば、色々と切り口が提供されているのだろうが、残念ながら読み取れず。

要するに、戦国武将の首取りと、狩猟民の首狩りを峻別する理屈が、数々の事例を眺めてもよくわからないということ。
考えてみれば、そんな簡単にわかる訳などないのであるが。
なにせ、いよいよ人口知能時代の幕開けと言うのに、斬首シーンを嬉しがる人達が少なからず存在している世界なのだから。こうした惨殺行為は、首狩りには該当しないのだろうか。

(本) 山田仁史: 「首狩の宗教民族学」 筑摩書房 2015年3月25日

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