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■■■ 本を読んで [2015.10.27] ■■■

土偶女子本で一杯

1年前、日本国宝展が開催された。その目玉が土偶。それにあわせたかのように一般向けの土偶本が出版された。小生は全く目もくれなかったが、大ヒットしたらしい。

その品変わりというか、濃縮版と思われる手帳サイズ本が出版された。生物の図鑑もそうだが、ちょっと眺めるなら、ソフト表紙のB5版より、この大きさが手に馴染む。と言っても、小生の場合は持ち歩きに便利ということではない。軽いので、片手で開いたままコーヒーを飲めるので有り難いということ。

著者は、自称なのか他称なのか知らぬが、土偶女子氏。仏像ガールの次世代歴女ということらしい。
仏像だと顰蹙モノかも知れぬが、土偶フィギュアなら楽し気に映るので、人気が湧いたのかナ、と考えたり。

ただ、そんなブームの実感は無い。國學院大學博物館に立ち寄ることがあるが、そのような方を今迄目にしたことがないからだ。もっとも、人が訪れそうもない時にしか入館しないから、なんとも言えないが。

本を眺めると、さもありなん感が湧いてきた。
アイドル化のセンスというか、コピーが秀逸だからだ。どんな調子かご参考まで。
現在、国宝は多分5点だが、それらはこうなっている。
  中空土偶@函館・・・「お洒落番長」
  合掌土偶@八戸・・・「唇セクシー」
  縄文の女神@舟形[山形県]・・・「八頭身美人」
  仮面の女神@茅野・・・「カマキリ仮面」
  縄文のビーナス@茅野・・・「背中美人」

そうそう、Taroの太陽の塔は、「月の塔」だった。土偶女子氏から、控えめ表現との評価が下ったようである。グジャグジャ表現とか、オドロオドロシイ的デフォルメが無いので「強烈」とは言い難しということか。
アヴァンギャルドの世界を見慣れると、その手の「強烈」にはたいした迫力を感じなくなりがちで、シンプルな表現に昇華させてこその「爆発」と見なしがち。成程そう感じるものなのだナ、と妙な納得感。現代美術展でもよくあることだが、そこらの感覚の違いは実に面白い。

ともあれ、全体のトーンとしては、縄文とは「ラブ&ピース」の時代ということのようだ。
生憎と、小生は、そうは思わない天邪鬼体質。

土偶には、必死の祈りの対象となっていた偶像が含まれていると見ているせいもある。古代の出産とは、赤ん坊だけでなく、母体もが死のリスクに直面していたと考えるからだ。どう見てもヒトの構造には無理があり、それは避けようがない。短足的な大根足と出尻が強調されるのは、それが安産の象徴ということ。それは、切実な問題だったと思う。
我々は、そのような感覚をとうに失ってしまった社会に住んでいることに改めて気付かされる。
もっとも、小生は土偶を見てそう思った訳ではない。・・・誰が見てもスタイル抜群で超美人なお嬢さんの話。多言語会話力があり、ピカピカの学歴というだけでなく、実際頭脳明晰なのだ。これは引く手あまただろうから、親御さんの誇りと見ていたら違ったのである。母親は美人になってもらわないと、と本気で大いに心配しているのだ。早く太ってくれないと美人から程遠く、これでは結婚相手がいなくなってしまうと言うのだ。日本人の感覚が歪んでいることに気付かされた一瞬である。

そうそう、板状の土偶があるが、これは安産とは無縁ではないか。祭祀用具としての人形のような気がするが。
そんなこともあり、この手のものには多少の気味悪さがあり、楽しく拝見する気にはならない、と言いたいところなれど、逆に愉しかったりして。
「ペグモン」@湯沢は圧巻。この名称、なんのこっちゃだが。
残念ながら土偶には該当しないらしいが、挙手人面土器@國學院大學博物館の面白さに引けをとらぬ。
「コレなんなの」感が一気に吹き上がってくること間違いなしだからだ。

見ていてつくづく思ったが、感じたことを正直に書いてくれると、読んでいると頭がそれに反応するようで、様々な思いが次々と生まれてくる。これはコーヒーを飲みながらではなく、山崎のロックだ。

(本) 譽田亜紀子,武藤康弘(監修):「にっぽん全国土偶手帖」 世界文化社 2015年7月30日

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