表紙
目次

■■■ 本を読んで [2015.11.1] ■■■

医師の純文学本を読んでみた

新刊本宣伝をネットで眺めていて、つい、コピーの秀逸さに惹かれて読んでしまった本がある。今回は、その話。・・・
"8冊の本に触れながら語られる「わたし」の来歴・・・誠実に生きやわらかな表現を得た作家の作品"

正直に言えば、この文章を読んだからなのかは、なんとも。ただ、自分で考えて見て、それ以外に興味を抱く理由が見つからなかったのである。

小生は、この著者のファンどころではないからだ。
著者のお名前こそ知ってはいるもの、一つの作品も読んだことがない。それどころか、本を手にとったことさえない。もちろん原作になっている映画も知らん顔。毛嫌いしているつもりはないのだが、そうなのかも知れぬ。
と言うのは、小生は、"農村"での古典的な社会運動のお話にはとんと興味が湧かないタチだから。もちろん、農村地域で一大医療コンツェルンを立ち上げた方の立志伝も読む気がしない。

ところで、その8冊とは、一体、どんな本なのか気になるではないか。

御師匠様の若月俊一本がイの一番かナ、と思って眺めるといきなり「解剖学」第3巻 金原出版からの引用とくる。金原出版の名前に出会うのも久方ぶり。
そして、第1冊目が、なんと絶版のHideaki YAMASHITA: "Roentgenelogic Anatomy of the Lung"。(レントゲンだと思うが、英単語の綴りの保証はできかねる。)道理で、本の名前を出した宣伝をしない訳だ。
まあ医者を目指していたのだから、影響を受けた本としては成程感あり。時代臭紛々だし。本の中身はどうなっているのかはわからぬが、日本の昔の人の取り組み姿勢が半端なものではなく、御用翻訳学者だらけだったなかでのプライドの高さがよくわかる。
それとは無関係だが、小生はつなげてしまうのが筆記用具。文士だから、触れないで済ます訳にはいかないのだと思われる。名誉病院長がモンブランのボールペンで、著者はモンブラン万年筆使用だ。このセンスには納得がいく。
つまらぬことだが、これがついつい気になる。大学生の時の通信添削アルバイトを思い出すからかも知れぬ。硝子ペンに赤インク瓶を抱えて、喫茶店滝沢(ソファで広々,清潔静粛閑散で明るかった.)に通ったものだ。疲れると、昆布茶(コーヒーの後の無料サービス.)で本を読んだりして。一方、ボールペンだが、モンブランを何本か貰った覚えがあるが、クロスしか使わなかった。コレ、一種の人生スタイルでもある訳で。

その感を深めたのが、著者のお気に入りに映る、偏屈な老医師とされる方のお言葉。小生も、ご近所の、背筋がキリッと引きしまったお医者さんからそっくり同じことを聞かされた覚えがある。(看護婦さん含め,相当なご高齢.家庭医だが自称外科医.)・・・皇族の方々は診察をお受けになりますが、ご自身でなさるような仕事ではないのですヨ。医者なんて大した仕事じゃアリマセン。その言葉に軍医として修羅場を潜り抜けて来たプライドが光る訳だ。

これに続いて、さらに、宣伝にはどうかな感の本が並ぶ。「エピクロス 教説と手紙」、大森荘蔵:「流れとよどみ 哲学断章」、と。ファン以外は引いてしまうかも。
しかし、読んでみると、いかにもこの方らしさが伝わってくる。なにせ、自称「やせ尾根を牛歩でゆくが如き」人生を送っておられるようだから。八ヶ岳でこれは精神的につらいものがある。パニック症候群を患い、鬱に悩まされる日々を送っていれば、そんなものかも感が伝わってくるのである。所詮は、患者本人しか、病気の辛さはわからないとはいえ。

そんなことを考えながら読んでいると、この著者は、医者の「聖職者扱い」や、医者が「聖職者を目指す」ことを、多いに嫌っていそうなことに気付く。ソリャ、現代世界に於いて、医療をビジネスとみなさなければ、そこに過激な宗教やドロドロした政治が入ってくる訳で、聖職などという概念は捨ててもらわねば困るのである。ポアして救済してつかわすといったオウムの医者の発想との境は極めて曖昧だからだ。
ただ、それはあくまでも理屈。どうしても、個人ベースでは、命を救わねばと考える心根との間に齟齬が生じ、葛藤に悩むことになろう。

かなり重い症状を呈していたようだが、どうにか切り抜けてこれた訳で、その点では恵まれていたと言って間違いないだろう。それは、ご本人が言うように、寛容を旨とする旧制高校教養主義者がリーダーの組織で働いていたからなのだろう。しかし、それを過度に重視すべきではないと思う。
都会では、目立たないが、珍しい存在とは思えないからだ。皆、一家言あり、エリートとしての強烈な自意識を持つが故に表だったりしないだけ。カリスマとかボスの地位を目指しているとは見られたくない人達だと思う。
その辺りの感覚は大分違う感じがした。

読んでみての感想だが、担当編集者がウリとしている点はその通りだったということに尽きよう。・・・「これは間違いなく、・・・私小説なのです。・・・60歳台半ばを迎えて、いま見えてくることが選びぬいた言葉で語られるのです。」
換言すれば、日本的な身辺雑記的短編小説ということ。

それに気付くと、ファンでもないのに、どうしてこの本を手にとったかが、わかって来た。
この方が、本を通じて、人生をどう「総括」しているのか気にかかったからだ。それはそのうち自分の身にもふりかかっている問題でもある訳で。

(本) 南木佳士:「薬石としての本たち」文藝春秋 2015年9月30日

 本を読んで−INDEX >>>    HOME>>>
 (C) 2015 RandDManagement.com