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■■■ 本を読んで [2015.11.12] ■■■

ウチナーグチで見る日本語の一断面

「はしがき」を立ち読みし、これは読まねばという気になった本がある。読後感としても、期待以上の素晴らしさ。・・・「落穂拾いのようなもの」だそうだが、タネの「点と点が結ばれて線となり、やがて面となっていく」のである。

そのような本からほんの一部とはいえ引用するのは失礼が過ぎる気もするが、余りに衝撃的だったので書き留めておきたくなった。
それは「お茶の子ウチャヌク」。
ナンデカネー?

勿論、沖縄口ウチナーグチ環境でのお話。
この語彙が何を指すかと言えば、お正月に飾る円盤状の白い餅シルムチを重ねたかがみ餅。吉野裕子氏の説を取り入れれば、蜷局を巻いた蛇身かがみの形象。そうなると、稲魂のお遣いとしての蛇神の依代の可能性も。それを、なんとお茶の友とは。
しかし、それは考え違い。
「お茶の子」とは、もともとは、仏さまへの御供物を意味していたからだ。[仏事に配る菓子・供え物@日本国語大辞典第2巻 小学館 2001]
おそらく、仏教伝来以前は、お正月の神饌。従って、正式名称はこうなる。
 お歳玉ウトゥシジャマ

考えて見れば、金一封に過ぎぬモノを恐れ多くも新年のマブイと名付けるのもおかしなこと。本来は鏡餅の正式名称だったのだろう。

驚かされたのは、コレだけではない。

年頭ニントゥーということで贈るモノに、沖縄の人ウチナンチュは御歳暮と書くそうだ。
言うまでないが、大和の人ヤマトゥンチュは御年賀だ。
まあ、年末、新暦の大和ヤマトゥ正月ソーグヮチ、旧暦の小正月翌日の仏教型後生グソーヌ正月ソーグヮチとしての一月十六日ジュウールクニチと、三つミーチもの年中行事ウユミシチビ的贈り物では負担が重すぎ。それに、本来的には、暦上の新月を迎えるのは、冬至トゥンジー正月ソーグヮチであり、何回もの新年を祝うのには抵抗感があったろうし。

そう言えば、"お茶の子"が3枚重ねの3組なのも不思議感を生む。天・地・竜宮(海) x 先の世・中の世・今の世を意味しているそうだが。合掌して拝む行為を念仏ウートートーと呼ぶようだから、竜宮が登場してくると小生など違和感を感じてしまう。極楽往生の9段階の方が収まりがよいのでは。(上品・中品・下品 x 上生・中生・下生)
蛇の象形とすれば、三輪山の名前のように3枚重ねは正式形状と言えよう。それぞれ別種の長虫ナギ?の、天のリー、地の波布ハブ、海の永良部イラブーということになる。
それは考え過ぎで、大陸古代祭祀に用いられた鼎の聖数に合わせた脱肉贄と見れないこともない。下敷きは、赤白黄色紙の三枚重だし、それぞれの餅の前に炭の昆布巻が供えられる。その上、御燈明と平型の御香まで揃うのだから。

そうそう年末行事の方だが、上述のように冬至正月がある。しかし、これは本質的には新年明け。竈の神でもある火の神ヒヌカンの祭祀、御願解きウグンブトゥチがそんな行事になるようだ。願掛け1年の総括がなされないと、ソリャ新年を迎える訳にはいくまい。仏教の「修正会」 [→「吉祥天の剛腕さ」]的な懺悔の反省会といことか。

ンチャ。
引用させて頂いた以上、ここで筆を置く訳にはいくまい。表面的な行為をいい加減テーゲーな体質から来ていると見なし、信仰心の本質を理解できない人への怒りを、正直に吐露されているからだ。

行間を読んで、もう一歩進めておこう。

上述したように、この本では3つの正月(冬至正月、後生正月、大和正月)が記載されている。このことは、もう一つ、隠れてしまった正月があることを示唆している。王朝が一律的に日程を決めかねる真の正月である。それは、稲魂の再生の日でもある新嘗祭。魂を頂いた祭祀者が各地を訪問し、各地が新年を迎えることになる。沖縄のように3毛作だと、その度に新魂を迎えることになり、3倍速く歳をとることになる。時の流れが異なる浦島太郎の世界。

(本) 稲福政斉:「沖縄しきたり歳時記」 ボーダーインク 2015年9月9日

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