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■■■ 本を読んで [2018.2.7] ■■■

ダニーボーイのエッセイ

1935年生まれで、働き詰めではないものの、毎日えらくお忙しい方の随筆集を読んだ。
の著名な研究者だが、この本の中身はそれとは全く無縁。生き物の観察眼を発揮すべく書き下ろしたようにも思えない。
さすれば、一種の文壇デビューということかも。
もちろん商業出版だから、売れ行きはどうかるのか気がかりなご様子。

マ、こればかりは蓋を開けてみないと。

内容のほうだが、例えば、こんな感想が述べられている。・・・
 譲られて
  座りゃいいのに
   怒るアホ
そうダ、そうダ、と声援を送る方が多いのかも知れないが、小生は、そうは思わない。
譲る行為に格好つけているから、事をこじらせたと見なす。このトラブルの原因はひとえにに親切の押し売りと考えるのである。
譲ったら、ことわられてしまうことはある。世の中、先を争って降りる人を押しのけて乗って来るような、座りたい人だらけだが、そうでない人も少数ながら存在する。
座らないというのだから、座わり直せばよいだけのことではないか。小生などそんなこと何回もある。たいていは「次で降りますので。」だが。
座席の譲り合いなどどうでもよい話だ。そんなつまらぬことに矢鱈に気をつかうなどご免被りたい。
マ、そういうことに拘ることこそが"美しい"日本の風土ですゾという主張かも知れぬ。

そういう観点ならこの話一理ある。

よく言われることだが、日本では、"〜かも知れませんナ。"という曖昧で切れ味鈍く、"逃げている"ような言い回しをする方が多い。小生は、その手の発言を嫌っていたのだが、最近は逆である。イイ加減な言い方の方が意義深い時代に入り込んでしまったからだ。
ガーガー怒鳴ったり、ただただ単語を連発するだけの浅薄で論理性を欠いた主張が横行しつつあり、それが切れ味凄そうな意見と見なされたりする社会に変化しているのが現実だからだ。
その場合、色々な見方がありますナ〜という曖昧な主張の方が有意義なのは明らか。考えさせる余裕を与えるからである。

確かに、"怒るアホ"なのだ。

そもそも日本語は多義語だらけ。著者が指摘するように、「手」「足」といった基本単語にしても、それらが何処を指すのかは決まっていない。会話の場で定義されるのである。
極めて曖昧だが、コミュニケーション上ではほとんど問題ないのだから、驚くべき情緒言語と言ってよいだろう。

そうそう、著者は自らをへそ曲がりと見なしているが、そう感じさせる箇所には出くわさなかった。そうだとすると、読んだ当人も、「へそ曲がり」類に属するということかも。
マ、やりたい事があれば誰でも多かれ少なかれ「へそ曲がり」にならざるを得ないと思うが。

気になったのは、"政治経済社会の問題にほとんど関心がない"と吐露している部分。この分野は勉強していないと語る。
う〜む。
政治経済社会とは、食事と同じで、すべての人にとって身近なモノで、要はセンス。
そういう観点では、リベラルアーツ的勉強の方が余程意味があろう。

それに、勉強した人物ならまともな見方ができる訳でもあるまい。せいぜいのところ、習った手法を駆使して収集データを精緻に分析する位のもの。上手く使えば重宝するが、それ自体の価値はたいしたものではなかろう。

(本) 青木淳一:「ダニ博士のつぶやき」論創社 2018年1月30日
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