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■■■ 本を読んで [2018.3.15] ■■■

直観 v.s. 直感 & 分析

以前読んだ分類学の本を取り上げてみたい。
「魚は存在しない。」と宣言した分岐(クレード)学者の勝利について書かれていると説明すれば、イメージが湧くかナ。

先ず、この本とは直接的には関係ない話から。

かなり前のことだが、創造力発揮に関する比較的新しい本(日本語のみ)を乱読的に一通り目を通したが、小生にはピンとこないものばかりだった。
日本は権威主義的方針に従って仕事をするのがお好きな研究者やエンジニアの層が極めて厚いから、(言うまでもないが、ご自分ではそのように思っていない。)そうした方々にはジーンとくる本だらけということだろうか。

それ以来、創造性分野の本を避けている。
そのお蔭で、素晴らしい著作に巡り合うことができるようになった。2013年のコト。(翻訳本タイトルにしては珍しく、売らんかな的ではないし、自己流解釈も避けているから、安心して読める。)
それが今回取り上げる書籍。

内容的には分類学の歴史。どの程度人気がある分野かは知らぬが、そのような本を読みたい人と本の虫だけの書籍として終わりかねない気もする。それでは実に勿体ないということで、一寸、触れておきたい。

本サイトでは、水棲動物話、唐代の書「酉陽雑俎」、漢語、文化人類学周辺の話、等々を脈絡なくとりあげてきたが、その辺りの感性からすれば、創造性の根源に迫っている本という気がしたのである。

なかでもソリャそうだと思ったのは、この指摘。・・・
狩猟採集民族の生物分類と、従来型の「科学的」分類"体系"には少なからず共通性があり、本質的に両者は同根と見てよい。

考えてみれば、「種」という見方を金科玉条の如く掲げれば、そうなるのは当たり前。
「分類は進化の歴史に基づいて行うべし」というルールを守っているというのに、進化途上の生物を、固定化した"種"として表現すれば根本矛盾を抱えるからだ。ただ、代替分類方法がみつからないからとりあえず行っているに過ぎまい。
要するに、科-属-種-亜種-変種の階層など大御所の主観的判断以外に決めようがないということ。(類型学の話をしている訳ではない。)

どんな分野だろうと、分析作業とは、先人のモノの見方をいかに効率的にコピーし詳細化するかという作業にほかならない。しかし、それなしには世界はよくわからないのである。そんな作業に入れ込み、徹底的に突き詰めたところで、より細かく記述しているにすぎず創造性とは全く持って無縁な活動。ここが肝要な点。
と言っても、まともに分析ができなければ、その"主観"がどのようなものかさっぱりわからない。それがわかって初めて自分を客観視できるようになり、創造性発揮の土台ができあがることになる。分析能力はその点で重要不可欠。
つまり、分析を通して、"ナンダ、自分は、できあがったモノの見方で整理しているだけだナ。"と気付くか否かが分水嶺。こんな見方が正しいとどうして言えるのか疑問が沸々と湧いてくると創造活動に入らざるを得なくなる訳だ。

ここらの実感がないと、おそらくこの本を読んでも面白味は少ないのでは。
(気付かねばお話にならぬが、気付いたらといって創造性が発揮できる保証はなく、その壁の突破も簡単なことではない。)
ゲノム分析が簡単にできる時代になり、分岐分類学が「科学」で、従来型分類はその補完的役割に落ち込んだとの感覚で読んでしまうからだ。

主観的で重箱の隅をつつくような分類学から抜け出し、ようやく「科学」の世界に入ったとの思い込みに疑問を感じていないと、この本の価値は半減してしまいかねないということ。・・・いくら「科学」的と呼んだところで、所詮は分析整理の緻密化でしかないのですゾ。
直観をさらに失わせる道を一所懸命邁進していると言えなくもないのである。

(本) キャロル・キサク・ヨーン[三中信宏,野中香方子 訳]:「自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか」NTT出版 2013年
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