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2003.7.17
 
 


立花隆本の教訓(その3:知恵の創造)…

 立花本の成功の秘訣を示したが、これが当たっているなら、立花隆氏は間違った評価を受けている可能性がある。

 といっても、すでに述べてきたように、正当な批判者氏や、ファンの両方が、立花氏を「知の巨人」と見なしている点を指しているのではない。両者ともに、「知の巨人」イメージが間違っているのである。
 分析に長けた「知の巨人」と見ているからだ。

 立花隆氏は、役に立つかを判断する前に、関係しそうな資料を徹底的に集める。研究に入るためには、不可欠な作業と考えているようで、ほとんどカネを気にかけずに遂行している。凄まじい努力だ。
 資料収集の後は、読み込みに入る。そして、インタビュー等の実地見分が加わる。
 世間一般では、このような段階を「分析」作業とみなす。情報の取捨選択を行い、要点を纏め上げるからだ。

 しかし、立花隆氏の作業は、実はこうした「分析」とは性格が違うのである。
 と言っても、このことがわかったのは、知恵を産む組織構築のコンサルタントから、立花隆氏の「「捨てる!」技術」批判論文を教えてもらったからである。
 この論文で、「私はこの本を全く評価しない。ほとんどカスみたいな本だと思っている。」との、心底から忌み嫌う主張を展開している。(立花隆著「「捨てる!」技術」を一刀両断する」文藝春秋 2000年12月号)

 この論文は、氏の従来型とはタイプが違う。膨大な資料を駆使して語りこんだり、自分史ベースに状況認識を伝えるといった、氏の得意のやり方ではない。従って、読み方によっては、軽薄な印象を与えかねない。下手をすると、「知の巨人」ブランドを壊しかねない危険な論文といえる。
 しかし、氏は、語らずにはいられなかったのだ。

 面白いことに、これに対して、ファンの大半は、「流石、立花先生。好きなものはとっておきたいヨネ」とか、「保管場所の広さに合わせて資料を取捨選択するのは当たり前。主張のピントがずれていて、立花先生らしくない」という反応を示したらしい。
 残念ながら、氏の真意は全く伝わらなかったのである。

 立花隆氏は、錯綜する対象の本質を見極めるためには、様々な情報を集めて、総合化するしかないと主張しているのだ。噛み砕いて語れば、情報を論理的に「分析」し、手順に従って再構築したところで、知恵など生まれないということにほかならない。「分析」と「総合化」は正反対の手法なのである。
 捨てる作業とは、前者の手法に属する。後者は、全てを包含する見方を生み出そうと苦闘するのだから、捨てる作業自体が存在する訳がない。
 従って、知的作業に、捨てることなどあり得ないという主張になるのだ。

 氏は、直観で、「捨てる!」が知恵の創出の否定論だ、ということに、気付いたのである。当然、このような主張を認める訳にはいかない。烈火のように怒る姿が目に浮かぶ。
 そして、周囲は、何故そんなに怒るのか、と見る訳だ。

 企業のなかで、知恵を生み出すために苦闘している実務者は、この怒りに共感を覚える。
 研究開発も、新事業も、新しい知恵が必要なのは分かり切っている。しかし、知恵は「分析」からは生まれない。ところが、今もって、このことに気がつかない経営陣が多いのである。

 「元」秘書氏が描いた立花隆氏の姿は、確かにつまらない。
 膨大な資料を読み漁り、最後の最後まで頭に詰め込んで、原稿締め切り直前に一気に吐き出すだけのオジサンなのである。
 これは、立花隆氏独特な手法ではない。全体像は、緻密な「分析」では得られない。誰がやっても同じことである。

 科学本を読む限り、立花隆氏は単なるジャーナリストとしか思えないが、知恵を生み出す過程について、じっくり考え抜いたことは間違いないようだ。


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