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2004.1.24
 
 


パブリックアートの原点…

 北アルプス山麓の穂高町には、驚くほど多くの道祖神が祭られている。(どこまで本当か知らないが、周囲を含めると900体と聞いて驚いたことがある。)「独特の知性とユーモア」を感じるものが多く、これだけで魅力的な観光資源といえる。
  (http://www.town.hotaka.nagano.jp/hotaka/see/see02.html)

 作者はわからないが、ひとつひとつ異なる作品であり、安曇野の自然や歴史を感じさせる貴重なものになっている。
 もともとは、信仰の証として、地域の人達が、専門職人に依頼して作った「どこにでもある作品」なのだろうが、今や貴重な芸術作品である。

 碌山美術館も魅力はあるが、広がる水田に雪を抱く山々が映り、清冽な印象を与える穂高川沿いにわさび畑が広がる地域には、風雪に耐えて佇む道祖神が一番似合うのではないだろうか。

 道祖神が存在することで、穂高町の価値は高まっているのである。

 しかし、同じように歴史を感じる「石」でも、飛鳥地区に点在する、2300トンの巨岩「石舞台」や、意味不明な「亀石」、「猿石」、「鬼の雪隠・鬼の俎板」、の方は、それほどの価値を与えていないと思う。
 ここでは、「石」を見つめながら散策しても、感慨にふけることは難しい。
 「石」自体が貴重な観光資源ではあるが、近代的な観光地スタイルでの整備が急速に進んでいる上に、周囲には新しい住宅地が混在しているから、古代王朝を振り返る心の余裕が生まれないのである。
 ポツ、ポツと散在する旧跡を見て回るオリエンテーリングゲームなら向くかもしれないが、謎めいた飛鳥の「風情」は期待できないのである。

 「石」と、現実の飛鳥地区の間のギャップが広過ぎるのだ。

 街でよく見かけるパブリック・アートも、これと同じことが言えそうだ。

 全国津々浦々ほどで無いにしても、そこらじゅうで、「彫刻のあるまちづくり」が行われている。

 ほとんどの場合、著名な芸術家の作品を、道路やビル前のスペースに置いただけに映る。そもそもの目的が、芸術を一般庶民に触れさせようというものだから、それでも十分なのかもしれない。
 お蔭で、「彫刻の街」構想案出に時間をかけていても、一般の人が見れば、同じようなものばかりだ。

 なかには、あまりにも不評で、粗大ごみと揶揄されている彫刻もあるという。
 メインテナンスを放棄しているため、本当にごみ化しているものまである。(美術雑誌で取りあげられているから、深刻化しているようだ。)
 無責任にしても、あまりにもひどい状況だ。

 しかし、こうなるのも、当然である。街のコンセプトが不鮮明なままで、彫刻を配置するからだ。
 街にどのような価値を与えたいのか考えずに、芸術家の個人的な感興の表現物を設置すれば、不適合が生じるのは当たり前である。
 芸術家は、周囲に合わせて美しいモノを作り上げる職業ではないのだ。

 そもそも、芸術を陳列すれば、街は美しくなるというのはドグマにすぎない。というより、このような発想を普通は成金趣味と呼ぶ。
 床の間に、親から受け継いでいる、くすんだ古い掛け軸を大切に掛けている家庭に、突然、ブッフェの明るいリトグラフを飾ってあげても、住人が美や喜びを感じる筈があるまい。

 同じことで、青山や表参道で「彫刻のあるまちづくり」を始める際に、道祖神を並べようとの提案が受け入れられるとは思えない。
*** 青山地区のパブリックアート例 ***
-- 作品名 ---- 作家 ---- 場所 --
一本の曲線伊藤隆道ハナエモリビル
異・空間 89-7内田晴之八品館ビル
MEMORIES堤直美サントロペ南青山ビル

 パブリックアートを展示するには、先ずは街のコンセプトありき、なのである。
 「この街には、何が必要なのか?」との問いに答えてから、彫刻を設置すべきだ。

 これは難しいことではない。
 青山/表参道地域なら、即答も可能だと思う。

 ここでは、もともと個性を主張するビルが並んでいる。新しさを示したい人が激しい競争を続けている地域なのだ。自由な発想を楽しんでいる地域に、同じような類のオブジェを画一的に並べられたら、興醒めである。ビルデザインの価値を高めるようなパブリック・アートを勝手に展示してくれるだけで、皆嬉しがる筈だ。
 要するに、建築自体がアートなのである。
 従って、建築デザインの特徴がさらに際立つような彫刻を設置すればよいのだ。

 芸術作品を選ぶのも、難しい作業とは思えない。

 青山通りを渋谷方面に進むと、こどもの国ビルがある。ここには、岡本太郎作「こどもの樹」はぴったりはまる。しかし、著名な幼児教育者の功績を称える銅像を立てて貰いたい、と考える人などいまい。
 このように、ビルのコンセプトがはっきりしていれば、適合する作品のイメージは自然に生まれる。
 後は、イメージに合わせて、作品選定基準を作ればよいだけのことだ。
*** 麻布十番のパブリックアート ***
-- 作品名 ---- 作家 --
KUMO五十嵐威暢
NUNO五十嵐威暢
SMILEANJUM AYAZ
SMILE ON THE FOOT
ON THE LADDER
MARK BRUSSE
LUCKY DONGMARKUS COPPER
PACKAGE DEALKAREN GENOFF
ADAM & EVEGEORGES JEANCLOT
COUPLEJOSEF ADAM MOSER
MOTHER AND CHILDLEE WOONSIK(李雲植)
SUN SMILEJORGE BLANCO
YOUGANU'S DREAMNECULAI PADURARU
FATHER AND SUNBERNARD MATEMERA
きみちゃん佐々木至
http://member.nifty.ne.jp/bakkei/minato.html

 パブリックアートは、あくまでも、街や建築物のコンセプトに合わせて、その価値を高めるために存在するものだ。アートを見にくるためだけの街にしたいのなら別だが、コンセプトに合わない展示物にはほとんど価値はない。価値を感じる人がいないのだから、ごみと化すのも無理はない。

 逆に、街のコンセプトがはっきりしており、地域が支持すれば、彫刻のまちはすぐに現実化する。

 典型例は、麻布十番だろう。江戸から続く老舗や庶民的な店が連なる商店街と、国際色豊かな人達の住宅地が隣り合う地域である。ここには数々の作品が並ぶ。

 その核となっているのが「きみちゃん」像である。(1989年製作) 街の顔になっており、商店街の人々に支えられ、皆から愛されている彫刻だ。花がいけられ、お賽銭まで寄せられるそうだ。
  (杉村荘吉著「パブリックアートが街を語る」東洋経済新報社 1995年)

 実在したきみちゃんにまつわる国際的な逸話が、地域の人々の心根に合致しており、その象徴が「きみちゃん」像なのである。その結果、皆に慕われる訳だ。
 現代の道祖神に近い。

 これこそが、パブリックアートの原点だと思う。

   -- 注 --
 パブリックアートは、米国Michigan州Grand Rapids に設置された、Alexander Calder製作「La Grande Vitesse」(1969年)が発祥と言われている。

  (作品の映像: http://www.bluffton.edu/~sullivanm/michigan/grandrapids/calder/vitesse.html)


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