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2004.3.30 |
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時代錯誤な代表選考会…1人のマラソンランナーがアテネ五輪代表選考で落ちただけで大騒ぎである。女性週刊誌の広告にまで、落選の裏事情を語るといった見出しが並ぶ。(1) 不透明な選定を続けているから、当然の結果といえよう。 実際、とんでもないことが行われているようだ。公平であるべき選定者が、臆面も無く、1選手を贔屓していることを、新聞記者に語っている。 「関係者はみんな○○さんを選びたがっていた。どうやったら選べるか考えていた」そうだ。(2) いかにも権力者らしい傲慢な言葉だが、語った本人はそう思っていないようだ。常識が通じない特殊な世界なのだろう。 マラソンは、冬になると、日祭日に長時間に渡ってTV放映されることが多い。明かに、高視聴率を取れる大型番組と言える。従って、マラソンランナーがタレント化するのは必然といえよう。 このような状況にもかかわらず、封建制さながらの仕組みで、代表ランナー選定を行なうのだから、驚異的である。 今や、選手は「商品」だ。その「商品」価値を、一部の人達が勝手に決めるのが、スポーツ界の常識らしい。 時代錯誤も甚だしい。 ビジネス界なら、代表選定が腑に落ちなければ、選定者達に対して損害賠償請求訴訟を起こすことになろう。商品価値を傷つけるような動きに対しては、訴訟で対抗するのは当然のことである。このような対応で、始めて、不公正が是正されるのだ。 ところが、日本では、このような方向には進まない。現実には、スポーツが商品化していても、それを認めようとしないからだ。 今やほとんどのスポーツ大会は、商業イベント化している。従って、選手はイベント出演者でもある。 要するに、選手はタレントなのである。 と言うより、選手をタレント化できないようなスポーツは衰退するだけのことだ。 オリンピックを見れば、その流れがはっきりわかる。 ここでは、すでにスポーツ種目間の競争が始まっている。人気の無いスポーツは種目から外されかねない状況にある。 それは当然である。オリンピック自体が、他の組織が開催するスポーツイベントとの競争に晒されているからだ。 典型は、野球だ。米国の大リーグの対戦試合と、米国チームが参加しないオリンピック試合の、どちらの番組がグローバル視聴率が稼げそうか、考えればわかる筈だ。 視聴者は、世界一を争う試合を見たいのである。 (もっとも、日本だけは長嶋監督効果で例外になりそうだったが。) 要するに、商業的価値が低そうなスポーツは、存在意義が問われているのだ。 歴史を誇る五種競技より、ファンが多い三種競技(トライアスロン)の方が、イベントに向いている訳だ。おそらく、前者は風前の灯火だろう。 こんな時代に、いい加減な仕組みで、タレント生命を奪う無神経さには恐れ入る。 --- 参照 --- (1) 女性セブン 4月1日号 「高橋尚子、激論7時間、凍りついた会議室−落選までのドタバタ裏事情」 週刊女性 4月6日号 「本誌だけがつかんだ真相 男たちの「嫉妬」と「裏切り」でQちゃんは泣いた! 高橋尚子選手落選を巡るドロドロ」 (2) http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20040315ie36.htm 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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