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2005.4.6 |
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弥次喜多映画の意義「真夜中の弥次さん喜多さん」(宮藤官九郎監督)が封切られた。コンピュータ・グラフィックを絡め、バイクの二人乗りが高速道路を走ったり、多数の女学生に囲まれたり、といったシーンをそこここでよく見かけるようになった。 一寸見てみるか、という気にさせる上手な宣伝である。 もっとも、話題が沸騰すると映画館は混むから、DVD化されるまで待つかという気にもなる。 それはともあれ、どんなものか、ついホームページを見てしまった。(1) よくできている。 配役は、TOKIOの長瀬智也と歌舞伎俳優の中村七之助だから、東海道中膝栗毛をパロディ化した、青春路線ロードムービーと思ってしまうが、全く違う。 文字通り奇想天外な映画のようだ。 そもそも原作漫画のシチュエーションが異様である。 二人はホモ関係にあり、喜多八はヤク中毒。相棒といえば、はずみで女房を殺したのである。生まれ変わる気で始める、お伊勢参りだ。 道中のストーリーもなにがなんだかわからない。 う〜む。 シュールそのもの。 しかし、グローバルで考えれば、映画の方は、それほど珍しいものではないかもしれない。 インド映画を見ると、シュール感に襲われることがある。文化の違いに愕然となるからだ。もっとも多作の国であり、ちらっと眺めたことしかないので、一般的に言えるかわからないが。 それでも、音楽と踊り満載ものが多いのは間違いあるまい。だいたいが色使いが派手で、シーンは常に刺激的。意味がわからぬ背景もでてくる。目立つならなんでもありという感じがする。 映画とは、本来はこうしたものかもしれない。動く画像の色覚に酩酊するのである。 「真夜中の弥次さん喜多さん」も、上質な“はちゃめちゃ娯楽”ということだろう。 面白いなら、それはそれで、第一級の映画といえよう。 ところで、日本の漫画界では、難しい評論がとびかうので有名だが、しりあがり寿氏はどのように位置付けされたのか、ほんの一寸気になった。(2) なにせ、遊び(着せ替えゲーム)を見ればわかるが、そのセンスは独特(3)である。 といっても変人を目指している訳ではなさそうだ。 “こまったりせつなかったりするとき、神様を信じていないボクは、手をあわせておいのりします。「せめて人並みに」。”(4) しりあがり寿氏の言葉である。 この言葉に、社会を見つめるリアリズムを感じた。 奇想天外な漫画をシュールと見なすこともできるが、その本質は、大衆の感じている生の表現にすぎないのかもしれない。ただ、並みの表現形式とは相当離れているが。 ところが、異端でも、面白ければ流行る。皆、争うようにして見に行く。 「せめて人並みに」と思うのだ。 これこそ、個の時代の特徴だと思う。 異端を容認するようになったのである。 しかし、異端といっても現時点の話で、主流化するかもしれない。誰も先は読めない。 これを不確実性の時代と解釈すべきではない。異端も含めて、様々な道が提起され、皆がどの道を行くか選ぶだけの話である。 そんな世の中が21世紀なのだと思う。 --- 参照 --- (1) http://yajikita.com/ (2) 「弥次喜多 in DEEP」は第5回(2001年)手塚治虫文化賞で“マンガ優勝賞”受賞 http://www.asahi.com/tezuka/kiroku.html (3) http://www.saruhage.com/good.html (4) http://www.daiwashobo.co.jp/kotobuki/essay.html 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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