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2005.10.11 |
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敬語をどう考えるべきか“現代人のマナーは低下したと、嘆息する声を耳にする。しかし、今ほどマナーに過敏な時代もないとの指摘もある。気鋭の社会学者による〈反常識〉の一冊”という宣伝文句にひかれ、新書を読んでみた。紹介事例は結構面白かった。 特に気に入ったのが、「まじッスカ」(1) 年長者は、“敬語もろくに使えない、礼儀を知らない若者”の言葉と見なすだろうが、話す当人にしてみれば、目上の人だからこそ、この言葉を使っているのだという。普通なら「まじ」なのである。 要するに、マナー感覚のずれが生じているとの指摘である。 それこそ、「うそ」→「うッソ〜」→「まじ」→「まじッスカ」→「本気なのですか」→・・・、と段階的に尊敬度が増す用法が出来上がったのかと思わず笑ってしまった。 (「〜ッスカ」は、「〜なのですか」を簡素化した言葉なのだろうが、「〜ス」という用法を思い出してしまった。国民的番組“おしん”が流行っていたころ、話し方を真似て、語尾に「〜ス」をつけて話す若い人がいたからである。尊敬の気持ちを表す方言らしいが、今でも、“おしん”の故郷では使われているのだろうか。) こんな例を社会学者がとりあげたことでもわかるように、敬語の議論は盛んなようだ。数多くの本が出版されている。(2) もっとも、文化論ではなく、敬語の使い方を身につけるためのハウツー本が多いようだが。 適切な敬語を使う能力は、社会人の必須条件とされているから、付け焼刃でもよいから急いで学ぼうというニーズが高まっているのだろう。 こんな状況を見て、敬語が乱れていると嘆く方が多い。現象はその通りだが、的外れな“お嘆き”と言えなくもない。 “国語学者たちの小むずかしい理論や分析によって、敬語は難解で扱いづらい言葉になってしまった”と主張する本が登場しているが(3)、確かに、敬語学習は外国語とほとんどかわらなくなっているから、この見方が当たっている気がする。 そもそも、敬語が乱れていると言うより、敬語が不要な環境が増えていると言うべきだろう。日常生活では、敬語など使わないで済むようになったのだ。 ところが、ビジネスには敬語が不可欠だから、しかたなく学ぶのである。 こうした現実を直視せず、情緒に訴えて、敬語の伝統を守ろうとするのは筋違いだと思う。 もともと、人間関係をしっかり意識し、相手を尊敬していることを示すための表現形態が敬語の筈だ。そうした関係がなくなれば、敬語が消えるのは致し方あるまい。 敬語とはあくまでもマナーの一種であり、相手を尊敬する場面で用いる言語表現に過ぎない。 誤解を恐れず語れば、今の若者の目から見れば、「目上」に尊敬に値する人がいなくなったから、尊敬言葉を使う必要が無くなっただけのことである。にもかかわらず、尊敬の言語表現を強要するのはいかがなものかと思う。 必要な場面でもないのに、無理に敬語表現させるのは不毛だと思う。 例えば、「おはよう」という挨拶を知らない人はいまい。しかし、「おはようございます」も使う。どのように使い分けるかは、当たり前の習慣化している。敬語とはそんなものである。 それでは、「こんばんわ」はどうか。「おはようございます」に対応する言葉はない。当たり前である。夜の公的なシーンなどないからである。 重要なのは、敬語ではなく、社会のマナーである。敬語の使い方を正すための議論の前に、マナーの再構築を図るべきだと思う。 海外とのコミュニケーションを経験すれば、表情や態度が重要なことはすぐに実感できよう。敬語の言葉だけ覚えさせるような、形式主義的な丸暗記教育は考えものである。 それに、「尊敬語」、「謙譲語」、「丁寧語」といった分類もどうかと思う。 尊敬や謙譲の感覚が失われているのだから、まずは対象で分類し、相手用表現、自分用表現、その他とすべきではないのか。 その上で、利用方法を分けたらよい。 例えば、formal(公衆用)とcasual(仲間内)に分け、そのなかでstandard(平易な標準体)、simple(簡素化体)、polite(丁寧体)といったレベルがあると説明すれば、全体がわかると思うのだが。 今や、様々な用例が登場している。にもかかわらず、源氏物語にも通用する見方を続けようとする理由がわからない。しかも、正式な敬語の用法を教えようとする。 そうまでして堅苦しい表現にこだわる必要などないと思うのだが。 美しい日本語を保ちたいとの気持ちもわからないではないが、それよりも重要なのは、現代社会におけるマナーを教えることだろう。マナーにあった実践的な語法を教える方が気分がよい社会をつくれるのではないだろうか。 上司が若造、部下が年長者という状況など珍しくない時代に入っても、ビジネスシーンで、年長者に対する時だけ表現方法を変える必要があるのか、考えて見ればよい。面倒なだけだと思うが。 それに、使い方は様々だ。「お役人」といえば皮肉になってしまうし、「ご挨拶」は常用の言葉と化している。「お豆さん」といった言葉もよく耳にするようになった。こんな言葉を、どの分類か考えさせたり、正解を覚えることに時間を使うのは余りにもったいなかろう。 今や、可笑しなコンビニ敬語も広がっている。「お釣りのほうは、20円のほうになります。」といった風に使うらしい。(4)おそらく、曖昧表現で、ギスギス感を消しているのだろう。しかし、顧客側もこうした表現が心地よいと感じるなら、間違いと指摘したところで意味は薄いと思う。 敬語に関しては、実用的な教育を施すべきである。 例えば、「そんなことありませんよ」を簡素化した「そんなこと」といった言葉はcasual(仲間内)用語だから、formal(公衆用)としてはマナー破りになることを教えることだ。 敬語を丸暗記させるのは、ファーストフードの接客担当店員に留めて欲しいものだ。 --- 参照 --- (1) 森真一「日本はなぜ諍いの多い国になったのか 『マナー神経症』の時代」中公新書ラクレ 2005年7月, 29頁 (2) 国際関西大学図書館 6月 『敬語』 http://www.kuins.ac.jp/kuinsHP/media/melib/me_kongetuno2.htm (3) 萩野貞樹「ほんとうの敬語」PHP新書 2005年5月 萩野貞樹「みなさん、これが敬語ですよ。 図でよくわかる敬語のしくみ」PHP研究所 2005年9月 (4) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8B%E6%95%AC%E8%AA%9E 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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