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2006.2.13
 
 


吉野ヶ里集落を眺めて

 シナリオ作成に当たって、何を注意すべきか、素人でも口をさしはさめる古代史で頭を訓練するとよいかもしれない。

 と言う事で、吉野ヶ里遺跡のホームページを眺めてみた。

 ブームは去ったようだが、ここは、竪穴住居を中心とする環壕集落を中心とする大規模集落跡である。大型の高床建物、望楼、大型の高床倉庫群が存在していたので、注目を浴びることになった。まさに、倭人伝で語られていた、望楼と柵列そのものだから、皆、驚いたと思う。
 さらに、青銅器、土器、絹織物製作所跡も発見されている。

 お蔭で、古代ロマンを掻き立てられる人が多いようだ。そのため、国家的事業として、多くの建造物が再現された。いづれも、学者の意見を取り入れた労作のようである。

 しかし、いくら労作だろうが、ビジネスマン的な視点では、納得感が薄い箇所が見受けられる。

 どこが気になったかといえば、「物見櫓」の以下の説明文である。
 “環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、ここで見つかった高床の建物です。周囲を見張る役割に加え、神聖な空間である北内郭の性格から、四方を祀る意味も持っていたと考えられています。”(1)

 何を証拠に、見張る役割の場所を、神聖な空間と考えるのかが気になる。些細なことをつついているように聞こえるかもしれないが、結構重要なことだと思う。

 そして、もう一つ。
 “北内郭の内部では物見やぐら跡や高床住居跡、竪穴住居跡などとともに大型建物の跡が発掘された。戦国時代の壕などによって一部破壊されていたが、元来直径50cmの柱16本からなる高層建物で、祭殿であったものと考えられている。”(2)

 柱が太いからといって、高層建築とは限るまい。気にかかる。

 吉野ヶ里集落には、「巨大木柱高層建造物の祭殿」がある筈という思い込みが先に立っているように映るのである。
 リアリズムに徹して眺めれば、これとは違った見方もできるのではないだろうか。

 願望をベースとしたシナリオは危険である。目が曇るからである。

 吉野ヶ里と出雲大社を結びつけたい気持ちはよくわかる。
  “950年頃の・・・本によれば、本殿の高さは、東大寺の大仏殿の十五丈をこえる十六丈にも達したといわれ”(3)ていたという。おそらく、間違いないだろう。

 従って、吉野ヶ里にも、巨木信仰文化があったかもしれないという気になる。

 しかし、これでは飛躍しすぎだろう。吉野ヶ里と出雲を結びつける論理を欠くからである。しかも、物見櫓が四方を祀る役割を果したことを裏づける物的証拠も示されていない。

 そもそも、吉野ヶ里は、3世紀の終わりから4世紀の始め頃突然途絶えている。どうしてか。

 こんな本質的な問題に答えを出せないのに、「物見櫓」を神聖な空間とみなすセンスには同調しかねる。

 と言うより、ビジネスマン発想だと、違ったシナリオを考えてしまうのだ。
 先ずは、本質的な方から答えを出すのが、ビジネスマン流である。細かなことは後から、である。

 吉野ヶ里集落は、豊かな水産資源を糧とする漁業、山麓の焼畑と湿地の稲作農業で繁栄したのだろうが、その繁栄を支えたのは、物流拠点としての役割であると思う。どう見ても、有明海と筑後川に係わる水上交通の要所にあり、良港を抱えていたのは間違いあるまい。
 しかし、生産性が高い稲作方式が登場し、山海産物の狩猟型集落、焼畑系や沿岸湿地帯の栽培農業集落は劣位になり、衰退したと考えられる。新型稲作集落が、開墾で一気に生産量を増やせば、当然のことだろう。滅ぼされた兆候が無いのだから、次第に鄙びていった可能性が高い。

 同じようなことは、鳥取県の妻木晩田遺跡にもいえそうだ。こちらは、倭国乱の時代(2世紀後半)に最盛期を迎えたらしい。そして消えていった。
 こちらの場所は丘陵の尾根。その面積は吉野ケ里遺跡の約3倍、152ヘクタールと広大だ。柱穴は太くて深い。(4)

 頭飾りをつけたシャーマンが描かれた土器が発見されており、特別仕様の掘立柱建物が「祭殿」だったことがわかる。こちらは、吉野ヶ里集落とは違う構成のようである。(5)

 さて、そうなると、吉野ヶ里の物見櫓とは一体何か。
 戦乱の世だから、水上の見張り番は不可欠といえる。海を見張る能力が集落の存亡を決めかねないからだ。当然ながら、物見櫓は不可欠である。そして櫓は、高ければ高いほどよい。高さは、繁栄の象徴であるが、地域平定の点でも重要である。

 しかし、出雲大社の高層のお社はそのような目的ではなく、宗教性だけのものである。そこには、“御内殿・・に大国主大神さまが鎮まっておられ”る。  このお社は、物見櫓の発展系と考えるべきではないと思う。
 海上交易の要衝とした栄えた出雲地区の雄が、大和の勢力に敗退して自決し、その霊が祭られたのである。海上交易を一手に取り仕切った有力者だったから、そのお社は、海を望む高いものになろう。物見櫓機能とは別の話ではないか。
 おそらく、重要なのは、お社の高さより、社殿から船付場まで続く、神が歩む道の方だ。高いのは、朝廷が、日本一立派なお社を作ると約束したからだろう。

 実際、この神さまは、“正面に向かっておらず、横向きに向かって鎮座されて”いる。どう見ても、海へと歩み、船に乗る態勢なのである。(6)

 この時代は、農耕民族ではなく、日本海を動きまわる海洋民族だったということだろう。
 しかし、漁業だけでなく、港の後背地としての山での生産を繋げたことで強みを発揮できたのではないか。材木は、エネルギー資源でもあるし、交通手段たる船の原材料でもある。林業が海洋活動を支えていたのだ。

 大国主の国譲りとは、海洋勢力から、農耕勢力への覇権移行に他ならない。
 ・・・というのが、ビジネスマン発想のシナリオである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.yoshinogari.jp/pages/info/i_2/info_2-3.htm
(2) http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-yda1/k-ycc1/k-ysc2/IPA-yos250.htm
(3) http://www.izumooyashiro.or.jp/keidai/honden/index.html
(4) http://www.z-tic.or.jp/photolib/yayoi_muki/P00181.pdf
(5) http://www.z-tic.or.jp/p/yayoi/mukibanda/about/kurashi/osameru/
(6) http://www.izumooyashiro.or.jp/keidai/honden/index.html
(参考にした考え方) 西和夫 神奈川大学教授の視点 http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/057/a02.php


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