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2006.3.14
 
 


Turandotで想い出したこと

 2006年トリノオリンピックで忘れがたいものといえば、観客の盛大な喝采(ovation) を浴びた2つのシーンである。

 1つは、開会式最後のシーン。70才で引退と言っていたLuciano Pavarotti が突如登場し、オペラ「Turandot」の「Nessun Dorma」(誰も寝てはならぬ)を歌ったのである。“vincero, vincero”(私は勝つ。勝つのだ。)は、まさにぴったりだった。文化の香りを感じさせる演出だった。
 もう1つは、「Turandot」のオーケストラ演奏をバックに始まった、荒川さんのフィギュアスケートのシーン。華麗で優美な大人の演技を見せてくれた。

 しかし、驚かされたのは、COHEN Sasha (8.04) v.s. ARAKAWA Shizuka (7.93)という、「Program Components-Interpretation」の採点結果だ。(1)主観的な評価点だから、妥当性判断は難しいが、感覚はかなり違うとしか言いようがあるまい。

 文化の差とはこんなものかもしれない。

 ところで、この効果で、日本では、余り知られていなかった「Turandot」が一躍有名になったそうである。
 これでオペラファンが増えるかもしれないと期待する人もいるそうだが、それがプラスになるとは限らない。お金がかかるオペラを支えるのは簡単なことではないからだ。

 もともと、オペラは、王侯貴族が支えたものである。その階層が崩れ去った欧州では、国家が代わってパトロンとなっただけのことだと想う。ウィ−ンのオペラ劇場にしても、国が支えているから成り立っているのは間違いあるまい。

 一方、米国MET(2)のように、ビデオやCDビジネスと一括したプロダクション・ビジネス化する方向もある。従って、METの「Turandot」など、オペラ・コンサートというよりショウだという見方がでてもおかしくない。これが面白くない人もいるかもしれないが、聴衆を集めて経営的に成立させるためには、致し方あるまい。
 オペラに限らず、文化というのは、誰かが何らかの形でビジネスにしなければ、消えていかざるを得ない。

 これだけの例では納得できないかも知れぬが、大衆の力でオペラ文化を支えるなど夢もいい所である。

 と言うのは、お金もさることながら、フィギュアスケートの採点結果でわかるように、何がベストかを説明できる方法などないからだ。
 評価とは所詮主観そのもので決まる。多数決の世界ではないのだ。自腹を切るパトロンがいれば、こうした場合に意思決定は簡単だが、皆が信頼する総監督がいない限り、、どのような方向に進むかを決めることもできず右往左往するだけになりかねない。

 オペラには、日本が一番苦手とする仕組みが必要なのである。
 ところが、日本が得意なのは、官主導、既存の仕組みを前提とした調整能力と、その結果としてのハコもの作りだ。

 しかし、ハコもの作りとの批判では、何も変わらないと思う。それではハコは不要なのか、と切り返されるだけのことである。
 問題を見誤った批判ほど状況を悪化させる。つまらぬ批判は止めるべきである。

 問題の本質は実に単純である。

 本気になって自分が好きなものを追求する人が運動の中心にいない限り、文化が育つ訳がないのである。文化の良し悪しとは主観的なものだ。自己主張なき組織など、意味がないのである。
 官僚に主観的な動きなどできる訳がない。自分の意見を言わず、他人の似非客観的評価をもとに意思決定するしかないのである。こんな状態で、まともな文化が育つ訳がないのである。
 型破りのオペラファンの官僚か、非官僚に全権を任さない限り、どうにもならないのだ。

 ・・・と言っても、なんのことやら皆目わからないかもしれない。

 バブル的計画のハコもの作りに過ぎない、との批判を耳にする、新国立劇場を例にとって語ろう。

 実は、2006年1月26日、横瀬庄次前新国立劇場運営財団常務理事が逝去された。その苦労はインタビュー録(3)を読むとよくわかる。
 ここまでこぎつけるだけでも、簡単なことではなかったのである。

 従って、ハコものだろうが、大きな一歩と考えることになる。苦労した当事者となれば、なお更だろう。大いに社会に貢献したと自負しているに違いない。
 しかし、よく考えれば、この発想を捨てない限り、前進は期待できないのである。

 実は、官は、小手先の工夫ばかりで、肝心なことに手をつけていない。

 オペラ文化を育てるには、先ずはパトロン作りである。
 と言っても、日本の公的機関にその資金余力はない。この現実から出発すべきなのだ。
 無いもの強請りは止めて自分の頭でパトロン探してみれば、解は自明である。

 どう考えても、パトロンになりそうなのは、収益を上げている企業だろう。いやがる企業もあるだろうが、オペラに賛助しそうな企業が多いのは明らかである。実際、海外を見れ。協賛企業リストに日本企業名がずらっと並んでいるではないか。
 こうした企業からお金を集めて、オペラ運営さえできれば、ファンもついてくる可能性が高い。公的資金でホールを作るのはその後でも間に合う。
 パトロン無しの展開など無理筋としか言いようがない。
 順序を逆にすれば、運営費稼ぎで、有名人を呼んで、チケット販売に力を入れるしかなくなる。文化育成どころではない。

 素人が考えても、企業や超富裕層がパトロンになりたくなるような工夫の余地などいくらでもある。しかし、そんな話を聞いたことはない。官がそうした税制や仕組み作りに踏み切るつもりがないのだろう。
 その理由は定かでないが、パトロン側が自由に動いてしまうと、官が成果を誇れなくなるからかもしれないし、昔のソ連邦のオペラの仕組みを理想としているのかも知れぬ。ビジネスマンには理解できない。

 そもそも、誰が考えても、新国立劇場ほど中途半端な組織はない。
 オペラ芸術監督はいても、音楽監督やオペラディレクターはいないし、座付きオーケストラなどなく、新国立劇場合唱団はあるものの、専属歌手がいない。
 これでオペラをどうやって育てるのか聞きたいものである。明らかに、新国立劇場とは欧米のオペラハウスとは違うコンセプトなのである。

 こんな状態では、既存の組織(二期会、藤原歌劇団)に場を提供する以外に何もできまい。もし、そこから一歩踏み出す気があるなら、新国立劇場独自の組織を作り始めるしかないだろう。

 といっても、それも難しそうである。オペラ芸術監督が、いかにも多忙そうな五十嵐喜芳氏から、ウィーン国立歌劇場の元制作部長Thomas Novohradsky氏へ交代しただけで、騒動勃発だからだ。

 打ち出された方針自体は当たり前の話だ。「世界水準のオペラ劇場にする」というだけのこと。
 しかし、どうなるかといえば、ソリストは海外から招致し、シングルキャストとする。つまり、日本人は端役に限られる。しかも、スケジュールが合わなければ、駄目ということになる。日本人の他の出番としては、新国立劇場合唱団とオーケストラということ。
 不思議な方針だが、「世界水準」で見れば、そうならざるを得ないというのなら致し方あるまい。
 繰り返すが、判定とは主観的なものである。

 こんな状況を突破できるだろうか。

 素人は、可能性は高いと考えているのだが。

 そう思うのは、核となる人が続々と育ってきたからだ。新国立劇場の最大の貢献は、ハコものではなく、オペラ研修所が産み出した研修生(4)である。

 オペラファンというほどではない者が見ても、2006年3月の研修公演(5)でのラ・ボエーム第1・4幕には感動させられると思う。有名人のラ・ボエームDVD版など二度と見る気がしなくなるのではないか。
 素晴らしい人材を輩出しているのは間違いないと思う。

 こうした人達を本気で支えるパトロンさえ現れれば、後は、この能力を引き出す監督の登場を待つだけである。そうなれば、流れは変わるのではないだろうか。

 --- 参照 ---
(1) http://www.nbcolympics.com/results/1501425/detail.html
(2) http://www.metoperafamily.org/metopera/home.aspx
(3) 音楽ジャーナリスト林田直樹氏日記 2006年02月08日
  http://blog.livedoor.jp/naoh123/archives/50460217.html
(4) http://www.nntt.jac.go.jp/training/opera/opera03/opera03.html
(5) http://www.nntt.jac.go.jp/training/opera/opera02/opera02_032/opera02_032.html


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