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2008.5.1 |
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沖縄食文化の見方…沖縄には「御嶽(うたき)」と呼ばれる、集落毎の信仰の場がある。霊域だから、立ち入り禁止で(観光地化していない場合)、神事は巫女さんが執り行い、男子禁制だそうである。 もともとの姿は、森に囲まれた象徴的な岩だけだったようである。その他は、あっても、お参りのための香炉がおかれる程度。お社は一切作らず、門や境界も無いものらしい。(1) 八重山では、地域の「字」が営々と守り続けており、祭りでは「お神酒(ミシャグパーシィ)」と「巻踊り」が奉納される。(2) この民俗を大切にしようとの主張をよく耳にするが、日本人にとっては、それ以上の重要性があるのではないか。 倭の時代の信仰スタイルが、そのまま生き続けている感じがするからである。 “内地の古神道と、殆ど一紙の隔てよりのない位に近い琉球神道は、組織立つた巫女教の姿を、現に保つてゐる”(3)と教えてもらわなくても、東夷伝と古事記を読んだことがある人なら、あ〜、これが原点なのだと感慨を覚えるのではないか。 八重山など、台湾は目と鼻の先だ。一方、鹿児島は、はるか海のむこう。にもかかわらず、中国文化に染まらず、古代の日本人の信仰スタイルを保ってきたのは驚異的だ。 もし、そうなら、沖縄の食文化にも、日本の伝統が色濃く残っていると見てよいのではないか。 神からのお言葉が一切文書になっていない宗教だから、「食」のスタイルに宗教観が反映し易いと考えられるからでもある。要するに、信仰が続いているなら、伝統の食文化を汚す筈がないということ。 そんな観点で考えると、いろいろと思いを巡らすことができる。 と言うことで、先ずは、どうでもよさそうな話から始めよう。 沖縄では、本土と違い、個人用箸がないそうである。短絡的に考えると、中国の箸・匙文化の影響とみなしがちだが、それは間違いかも知れぬ。 個人用の箸の意義とは、おそらく、神からご飯を頂く際に「浄」を保つことができるという点。しかし、神から頂戴する食に箸が不要なら、そんな配慮はいらない筈。 実際、後漢書によれば、(4)倭人は“飲食以手”とある。 (後漢書は、琉球/沖縄地区を別扱いしている。) 加熱調理がなかった訳でもなかろうから、料理箸はあったと思うが、食べるなら、「箸」を使うより「手」の方が嬉しかったということだと思う。しかし、それは核となる「食」以外での話。中国人はそれは気付かない。 (古事記には「箸」で女陰をつく、訳のわからぬ話があるが、これは巫女政治廃止を意味するのかも。又、川の上流から「箸」が流れてくる話もあり、経済発展で男性が政治を司るようになり、神の代理である女性の手から食を頂戴する方式が改められた感じもする。そう考えるのは、男系の天皇家での初の女帝、推古天皇が「豊御食炊屋比売命」とされているから。神饌を供すのはあくまでも女性であり、もともとは政治を司っていた筈である。) “人性嗜酒”だからだ。 中国からみても、相当目だつ習慣だからこそ記載されたに違いない。しかも、喪の時は“不進酒食”。倭では、飲酒は社会的に重要な意義があったに違いないのである。 従って、沖縄では、神と共に頂くのは、お酒との原則を、厳格に守り続けているに違いないのである。酒盛りに見えるが、それは神と共にする食事の場なのである。 後漢書の頃だから、酒といっても、どろどろの酒だ。清涼な山の水で割ることになろう。しかし、薄めたところで粒はある。「飲む」のではなく、「食べた」という感覚だったかも。ただ、日本人はアルコールに弱い人が多いらしいから、相当薄めたと思われるが。 この酒だが、醗酵食品だから、今とは違って、いつできるか正確な予想はできなかったろう。従って、頃合を見て、四方から、三々五々人が集まってくるスタイルで食事が始まったと思われる。このことは、相当遠くから食事の来訪者があってもおかしくない。他の地域の神にもご挨拶に行く習慣があった可能性はかなり高い。 そして、いったん食事が始まると、酒が無くなるまで続く。酒の保存がきかないからだ。これを中国人が見れば、だらだらと何日も酒ばかり飲む不可思議な民族に映るのは当然。 時間がかかるから、おそらく、個人別に器があったと思う。お神酒用のハジキ(土器)の坏(ツキ)を作り、個々に印でもつけていたのではないか。 (これが、歴史を経てご飯茶碗になっているのでは。尚、平城京から個人用を示す墨書土器が出土している。(5)ちなみに、後漢書では野菜を生で食すとされている。肴には生野菜が合うということかも。) この慣習は本土にも残っていると間違いがちだが、とうの昔に改定されている。 神と共に頂くのは、お神酒、お餅、ご飯と様々だ。お米をお供えすることも少なくない。このことは、神饌奉納儀式と氏子の宴が分離されてしまったということに他ならない。神と食をともにするといっても、形式だけの儀式として残っているだけだ。 その新スタイルを定着化させたのが「大饗料理」。それが作法として細かな規定化され「有識(職)料理」となったと言われている。そして、宴も、酒を酌み交わす式と、食事の完全分離に至る。それがはっきりわかるのが、「本膳料理」だ。この段階でも、一日かけるような長い宴だったろうから、生活スタイルにあわせてさらに改定が進んだのである。 まあ、このような素人話は、証拠なき推定だから、所詮おもしろ話の範疇。 それなら、もう一歩大胆にお話を進めても面白かろう。 本土から沖縄を訪れると、観光客相手の地域は別として、魚をよく食べている割には、不思議な点があることに気付く。これが当たっているか、100%の自信はないが。 ・寿司店が少ない印象を受ける。 ・刺身は料理の中心ではなさそうだ。 ・焼魚メニューが無い。 少なくとも、本土とは、魚食の性向がかなり違うのは間違いないのでは。どう見ても、揚げものが定番料理である。 これを、暑いところで冷蔵庫がなかった時代のなごりとか、生を食べない中華料理の(湖南には刺身があるが)影響と解釈できないこともないが、違う見方もできる。 もともと漁は生活の一部だった筈だから、「沖」料理としての生食がなかった筈はない。にもかかわらず、生魚や焼魚が人気薄だとしたら、その独特の臭気を嫌った可能性がありそうだ。その臭いで、「不浄」感に襲われる人がいるのではないか。神とともにする食事には不適ということ。 それでは、油で揚げる調理技術がなかった時代はどうしていたか。 実は、その時代の食を彷彿させる伝統料理があるのだ。 エーグァー(アイゴ)のマース煮である。調味料なしで、白身魚を酒と塩で煮ただけの、「浜」料理の風情がただよう一品だ。これだけは、美味しいから続いていると思われる。 ただ、多くの場合は、塩干し魚を使った可能性が高い。なにせ、台風の進路上にある島であり、漁がいつでもできるとは思えないからだ。 ともかく、よく切れる包丁が手に入らなかった時代のこと。倭人にとって、一番の「おかず」は、このような魚介類の塩煮だった可能性が高い。多分、貝が多かったとは思うが。 つまり、魚介料理は、臭いを消す加熱調理が原則だったと見る訳である。そして、素材そのままの姿料理が尊ばれたのではないか。もしもそうなら、刺身に人気が出なくて当然である。 そんな風に考えると、握り寿司が流行らない、別な理由もあるのではと、つい考えてしまう。 ご存知の通り、「握り」は、江戸の屋台料理から発展したもの。これが、沖縄で人気がでない元凶という気になってくるのだ。 そう考えるのは、沖縄では、屋台系譜の料理が欠落しているから。 (沖縄屋台料理の宣伝文句は溢れるほど存在するが、実物の屋台は見かけないということ。これも、100%の自信はないが。) 「沖縄そば」は、東京の「支那ソバ」屋台のようには進まなかったようだ。東南アジア一帯は、屋台料理の満艦飾状態なのに、沖縄だけが、その文化を拒絶したとしか思えないのである。 屋台は、神と共に食べる場として不適と考えれば、その姿勢は当然ということではないか。 ただ、沖縄の面白いところは、屋台はなくても、外食好みという点。 どこへ行っても、食堂だらけなのである。しかも、食堂のメニューには、缶詰肉を用いた「ポーク卵」や「コンビーフ目玉」といった安価な料理が入っている。これらは、どう考えても、忙しい朝食用の手抜き家庭料理だ。それをお金を払ってまで食べにいくのだから、外食が習慣化しているということだろう。これを、米国的な外食文化と考えるのは、どうもしっくりこない。 そう思うのは、こうした料理が、いわゆる呑み屋にも登場するからだ。 これは、酒宴と食事が一体化しているということでもある。 実は、これこそが、“人性嗜酒”の伝統そのものなのでは。 出歩いて、食事をするのも、実は古代からの習慣だったのかも。 と言っても、輸入缶詰肉料理を提供する食堂をとりあげ、それが日本食文化の伝統であるなどと主張すれば、詭弁に近い。 それに、沖縄食は、表面的には、文化的なごちゃ混ぜ感を与えるものが多い。チャンプル料理など典型だ。これは、東南アジアが本場かも知れぬ。タコライスに至っては、伝統と無縁。 しかし、じっくりそれらの料理を観察すると、一本、筋が通っている感じがしてくる。 どれもこれも、“暖かいご飯”に執着しているからだ。ご飯さえあるなら、火が通って調理されたものがつけば、どうでもよいということ。実際、メニューに並んでいる料理は、「おかず」「みそ汁」「○○チャンプル」「ポーク卵」だ。 本土から来て、これを見て違和感を抱かない人はいないだろう。知らなければ、「おかず」に“ご飯”と「みそ汁」と注文しかねないからだ。 だが、よく考えれば、“暖かいご飯”が食事の基本なら、これは正当な表記方法と思えてくる。 そして、沖縄の人が“暖かいご飯”好きなことを実感させるものがもう一つある。 コンビニエンスストアの「お握り」だ。沖縄では、ほとんどの人が電子レンジで暖めると聞く。東京では、暖めるのは弁当であり、お握りを暖めるシーンは滅多に見かけない。暖めるのが嫌いな人も少なくないのだ。 と言うことは、沖縄では、イクラ入りお握りなど、冷たい上に生臭いから、ほとんど売れないかも。 矢鱈強い“暖”感覚だが、それは「箸」無し時代に身につけたものではあるまいか。“飲食以手”の時代、手に直接感じた“暖”は、食事の有難さでもあった筈だから。 もっとも、この感覚は、沖縄に限ったものではない。 碗に熱いものを入れれば、手で碗を持つのは容易なことではないが、取っ手をつけようとはしない。これだけはえらく頑固である。流石に味噌汁はつらいから、椀が主流だが。 話はとぶが、おそらく「箸」も手の延長。軽くて華奢なものになるのは当然。重い箸を使うことが富の象徴でもある中国流発想が通用する訳がない。 さらに驚かされるのが、沖縄チャーハンとでも言うべき「クファジューシー」。(6)コレ、どう見ても、ピラフか焼飯の類の料理。ところが、レシピを見ると、油を最初に使わないのである。炊き込みご飯ができあがってから、ラードを加え、混ぜて蒸らす。中華料理が入ってきているにもかかわらず、焼飯的料理方法を拒絶したとしか思えまい。 そこまで炊きたてご飯にこだわってきたということ。 沖縄の食文化には芯がある。 --- 参照 --- (1) 備瀬ヒロ子: 「御嶽空間について」 しまたてぃ[沖縄建設弘済会] No.31 [2005年10月] http://www.okikosai.or.jp/kenkyusho/magazine/sima_31/sima31-28.pdf (2) 「各御嶽で巻き踊りなど奉納 4カ字豊年祭始まる」 八重山毎日新聞 [2007.8] http://www.y-mainichi.co.jp/news/8876/ (3) 「國學院大學折口博士記念古代研究所所蔵・折口博士石垣島民俗写真の調査」 国学院大学21世紀COEプログラム http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=149 (4) 後漢書卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人 http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/new_kan/wa.htm (5) 京都編集工房 土器データーネットワーク [土壙SK219] 奈良文化財研究所: 平城宮発掘調査報告II 内裏北外郭の調査 (1962年) 「弁椀(土偏に完)勿他人者」 http://www.doki.ne.jp/kobetu_gaiyou01.htm (6) 沖縄の食文化を探る てぃ〜あんだ〜 クファジューシー http://www.wonder-okinawa.jp/026/recipe/kufa.html (参考[御嶽信仰]) 平良直: 「沖縄の宗教的伝統における中心の象徴と神話的始源 ―御嶽と神歌の宗教学的研究―」 第二章 沖縄の宗教的伝統における歴史的・文化的特殊 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B16/B1687762/4.pdf (御嶽[国営沖縄記念公園]の写真) [Wikipedia/Turlington] Utaki.JPG http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Utaki.JPG 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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