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2009.1.7
 
 


柳箸で想う…

 お雑煮とお節を食べるのに、両端が削ってある丸箸を使う人も少なくなかろう。
 取り箸の代わりではないから、歳神様が反対側で使うということと聞かされてきた。この材は柳とされる。小野東風の蛙イメージが強い木だから、霊験あらたかということではなく、“あらたま”を迎えるには無垢を示す白色が際立つ材がよいということだろう。
 と言うことで、おそらく、売っているものは、白い輸入材ものが大半だろう。
 測ってみたことはないが、長さの方も、縁起を担いで、八寸かも。

 そんなことが気になり、普段使いの箸もどうなっているのか考えて見たくなった。
 と言っても、すでに、箸はブーム化しており、専門店をよく見かけるようになった。福田前総理が采配を振るったサミット効果かも。お店できいてみたら、2000種類売っているという。お客さんは、その中から、どれにするかじっくり選ぶそうだ。その選ぶ嬉しさを提供するビジネスらしい。
 ちなみに、秋葉原でヘッドホン専門売り場には最盛期には200種類以上が並んでいた。何故、そんなことを覚えているかといえば、海外からの訪問者に、これを見せていたから。この場合、その後に、白モノ家電製品売り場に連れていくのがコツ。海外でも有名なブランドの製品があることにまずビックリする筈。そして、先ずは、クーラー付きや、音が静かなタイプの洗濯機を解説。そして、次に、冷蔵庫。扉を開け、細かな細工と機能を見せると、たいていは言葉を失う。
 これが、どう受け取られるかは、よく注意した方がよいが、ともかく、この多様性こそが日本文化の特徴ということだけは理解してくれる。

 話はとんだが、こんなこだわりの原点は、箸かも知れないと見ているのだが。

 そう考えた理由をご説明する前に、拙宅の箸の状況を開示しておこう。
 普段は個人毎の塗箸と竹箸。お客様がいらした時は割り箸。この他に、参拝記念に神社で頂戴した「難転」こと南天の箸を使うこともあるが、どうも白木を長く使うのは気分がよくないのですぐに止めてしまう。
 塗箸は、津軽塗の夫婦箸を度々頂戴していたので、これに決めていた。唐、紋紗、七々子と色々な塗りがあるが、どれも美しいものである。(1)ところが、それを、最近、塗り箸で一番売れていると言われる若狭塗箸に換えた。(2)福井県のアンテナショップで購入したのである
。様々なデザインがあり、なかなか面白いのでよく眺めていたが、食洗器対応品があるので使ってみたのである。お気軽な選定だが、お洒落な色つかいなので、結構気に言っている。

 竹箸の方は、塗箸が使いづらい蕎麦用だが、細いので取り箸としても重宝している。使い始めの時は、青竹の清々しさが嬉しいものだが、すぐに色が変わってしまうのが残念。
 割り箸は、白木の“元禄”(切れ目が上まで通っているタイプ。弁当用は上に切れ目がない“丁六”。)を、スーパーで特に選ばず買っている。実は、奈良に遊びにいった時、割り箸は、絶対に、吉野杉製の“天削”(上が削ぎ落としてある。)にしなさいと忠告を受けた上、新品まで頂戴したが、一回毎に使い捨てではあまりに贅沢すぎるから、この箸の購入には踏み切れずにいる。

 こんなことをよく覚えているのは、旅館のもてなし方針は、箸の扱い方で想像がつくからだ。“天削”に枝の箸置きといった簡素なサービスを旨としているところもあれば、装飾のような箸袋、立派な箸置、大仰な箸というものに出会ったこともある。好き好きだが、小生は、後者のような箸を見たとたん興醒めに陥る。箸は、和食器のように姿を愉しむものではないし、ましてや高級カトラリーのように美しさを愛でるものではないからだ。

 日本の食事で重要なのは、料理を頂く時に感じる、精神性ではないか。それが微塵も感じられないものは、和風洋食に過ぎないと見ているのだが。和風イタリアン、和風フレンチ同様の、和風ジャパニーズということ。
 和風ジャパニーズだけはご勘弁願いたいというのが正直なところである。

 もともと、日本の食事とは、神と交流する場。箸と飯椀(今は碗が多いが。)はその祭器である。神と一緒に頂くのだから、木製で一回毎に使用するのが原則だ。と言っても、普段の食事では、そんなことは無理だから、その精神を取り入れて合理的に対応するしかない。そんな思想がわかっていれば、食事のマナーなど自明。
  ・食事の場は、清々しい所に限る。
  ・履物を脱ぎ、身支度を整えてから、食事に入る。
  ・箸と椀は個人別だから、運搬上の都合上、銘々膳が便利である。
  ・椀や箸は、自分の手で、大切に扱う。
  ・ともあれ、共通の皿に対する直箸は、不遜極まる。
  ・食べ残すなど、もっての他。料理を捨てるなど、罰当たりものではないか。

 だが、残念ながら、こうした当たり前の習慣も風前の灯火に近い。正月から、子供が箸を持って走り回っていたり、テーブルで箸を弄ぶのを容認する親だらけ。そんな親に限って、初詣だけは熱心なのだから驚き。一体、何を考えて参拝しているのかさっぱりわからぬ。
 箸は神社以前から存在しているものなのだが。・・・

 スサノオの命が八岐大蛇を退治する古事記に、“有箸順其河流下,故須佐之男命思其河之上游必有人.遂溯上”(3)とある。この時代、すでに、人が住む所必ず箸ありきだったのである。そして、箸墓(古事記の記載の事件だろう。)でわかるように、特別なものとして扱われていたのである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.hirosaki.co.jp/htcb/histroy/history/waza.html
(2) http://www.wakasa-hashi.com/
(3) 新訂(浦木裕編)「古事記」[建速須佐之男命退治八岐大蛇]
   http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/kojiki/04.htm
(箸の写真) (C) photolibrary http://www.photolibrary.jp/ [52029 箸]


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