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2009.8.3
 
 


「漢字文化圏」時代は来るか…

 英語より漢字という風潮が生まれているようだ。もちろん、検定試験の話。
 1990年代から急速なグローバル経済化が進んだから、アイデンティティを求めて、独自文化にこだわる傾向が強まるのは自然な流れだが、そこまでしなくてもという感じもする。
 まあ、政治運動ではなく、漢字を学ぼう運動に注力しているのが、良くも悪くも、日本的とは言えそうである。

 そんなことが気になったのは、“漢字字体論争”が盛んなようだから。もちろん、こちらは、中国での話。
 2009年3月、潘慶林(1) 全国政協委員が、繁体字復活を提案したのである。(2)今後10年間にわたり徐々に簡体字を排除し、繁体字の回復を図ろうというもの。若者は繁体字など全くわからないし、高年齢層は勉学とは無縁な生活を送ってきた人が大半だから、えらく大胆な構想である。
 毛沢東路線とは逆の提言でもある。
 文字表記の簡略化で、識字率をあげるといえば聞こえはよいが、要は、貧農・人民解放軍主体の政治体制を磐石にする上での重要施策であった。その要無しというところまで、中国共産党の基盤が変わったということか。
 ただ、異民族地帯での、表記文字変更は摩擦を生むこと必定。人口過多の漢族を移民させる政策と表裏一体だから、繁体字復活を持ち出せば漢文化押し付けに対しての抗議運動勃発は避けられないからだ。

 一方、漢族知識人にとっては、この主張は、もっともな話ではあろう。
  ・過度な簡略で、漢字本来の芸術性や表意文字の性格を失っている。
   (もともと、異字体が多すぎるが、ご都合主義的な字体変換は体質かも。)
  ・繁体字は複雑で覚えにくく、書くのも面倒との問題は、電子変換普及で解消された。
   (「康煕字典」の文字数での活字化は実践性に乏しいのは確かだ。)
  ・簡体字の大陸と、繁体字(正体字)の台湾の統一に役に立つ。

 台湾が、繁体字の世界文化遺産登録を目指して動いているので、(3)黙っていられなくなったと見れないこともないが、デキレース臭い動きにも映る。

 と言うのは、2009年旧正月に中国中央テレビ(CCTV)が、テレビドキュメンタリーとしてはかなり壮大な、「漢字五千年」(4)[国家漢語事務局作成 総指揮: 麦天枢]を放映したことも、その背景にあるからだ。
〜 字体の変遷 〜
岩画 絵文字
亀甲/牛骨占
青銅器銘文
石刻文
甲骨文字
金文
小篆
礼器碑等 隷書
木/紙に速書き
書風重視
草書
行書
木版・活字 楷書
デジタル 各種フォント
 ヒマラヤ山麓の寧夏回族自治区大麦地地区(黄河中流域とは余りに遠いが。)で、旧石器時代にすでに「絵文字」が案出されていたことがわかり、(5)中華意識が高揚しているようだ。これに合わせて、中央指導部の指示で大キャンペーンを打ったのだろう。

 その結果、様々な議論が発生しているようだが、政治問題化はタブーのお国柄だから、文化論の枠内での意見のやり取りに限定されている。しかし、それなりに面白い。(6)

 だが、漢字使用圏といっても、漢族政権が続いた台湾と、中国共産党支配圏を除けば、例外的な存在にすぎない。
 チベット、ラオス、タイ、カンボジアは印度系文字だし、モンゴル、ペルシア、アラブ、トルコも漢字を全く寄せ付けてこなかった。(表意文字にすると、民族毎に読み方が変わるので、帝国建設には不適ということもありそうだ。)

 韓国にしても、漢字を長らく使用してきたにもかかわらず、国粋主義高揚を狙って、軍事独裁政権が漢字を強引に廃止した位だ。
 そして、出自が判然としない表音文字(ハングル)使用を強制した。不思議なことに、政権が変わっても、この政策に変化は無い。(識字率が低かったことを漢字修得困難性に転化できるし、表音文字が進歩的という理屈を信奉しているのかも。)
 言うまでもないが、朝鮮半島で使われる単語は中国語由来の単語だらけの筈。日本人からすれば、その表記をハングルに変えることで、何が嬉しいのか理解しがたいところだが、漢字全廃に対しては国民的な支持があると言われている。その結果、日常的に漢字を読める人はほとんどいなくなったようだ。古い書籍に馴染むことが全くできない状態なのである。大国の影響を受けてきた過去を一切切り捨てようということだろうか。(李朝の茶の廃止と同じで、実に、偏狭な考え方をする民族である。)
 最近は、漢字復活報道も見かけることがあるが、ここまでくれば、あり得ない。日本国内のハングル表示と同じで、観光客用でしかなかろう。
 要するに、過去の蓄積を切ったのだから、まともに勉強するには、英語しかないということ。それはそれで、ビジネスにはプラスと、功利主義的に考えているのかも。反日には熱心だが、どんな伝統を大切にしているのか、さっぱりわからん。

 ベトナム(越南)も、中国文化浸透を嫌って、フランス植民政策の名残りアルファベット文字(クオック・グーこと“国語”)の全面使用に踏み切ったから、韓国とよく似た動きに見えるが、内実は相当違うようだ。“ベトナム 全土で「完全に」漢字教育がなくなったことは、現在までない”(7)そうで、“国民全体をカバーする公教育の外”で知識階層中心に続いているのだそうである。
 文化の伝統を重視するなら、ここら辺りは当たり前の姿勢だろう。(毛沢東の文化大革命や、知識人絶滅のポルポト路線が嬉しい人は別だが。)

 こうして眺めると、日本は特例なのがよくわかる。識字率が圧倒的に高かったということもあるが、異民族であるにもかかわらず、あくまでも漢字使用に拘っているからだ。
 おそらく、この状況は、今後も変わるまい。
 実態からいえば、「古文」や「漢文」を読めない人だらけだし、多少難しい漢字は全く読めない大人も少なくないようだが、それで結構と考えている人は少数のようだからだ。このことは、古典の素養を愛する層は厚いということではないか。
 乱れる日本語の現状を眺めれば、信じ難いところもあるが、俳句が廃れる兆しを見せていないことが、その証拠と言えるかも。

 俳句とは、和歌の上の句。つまり、万葉集の時代から連綿と続いてきた伝統の文芸作品なのである。おそらく、義務教育で習ったことを忘れていても、ほとんどの人が俳句は作れるのではないか。しかも、万葉の時代の情感を受け継いでいる。これはすごいことである。
 その基底に流れているのは、漢字カナ混じり文の嬉しさでは。従って、この感覚が消えない限り、日本人が漢字を捨てることは有り得ないと思う。

 万葉集は漢字記述だが、土着言語の音を、記号としての漢字で表したにすぎない。しかし、どうも、同時に、文字に情感を求めたり、表意文字としての意味を加えたり、文字の形を喜ぶなど、遊びの精神も発揮していたようだ。それは、現代の日本人の漢字に対する扱い方とよく似ている気がする。日本人は、古代との繋がりを無意識のうちに求めているのかも。

 おそらく、全国政協での繁体字復活提言とは、こんなことをお見通しの上での動き。
 「漢字文化圏」運動で、日本や台湾での中国友好ムードを高めようということではないか。
 それに乗りたい人もいれば、お嫌いな人もいるが、はてさて、どうなるか。

【カットの文字について】
漢字文化圏論者は、心を失った「愛」など考えられぬと主張しているとか。
繁体字の「藝」は、簡体字では“草冠”に「乙」。
「乙」の音が「イー」で、「藝」は「イー」と読むからだそうである。
簡体字は表意文字ではなく、ベトナムのクオック・グーといい勝負。
と言うか、毛沢東はゆくゆくは表音文字化したかったのだろう。
日本の「芸」とは、「藝」とは無縁で、草を植えるという意味の文字だという。
そう、園芸の「芸」なのである。
これを“流用した”と言われているようだ。
・・・鈴木孝夫,田中克彦: 「対論 言語学が輝いていた時代」 岩波書店 2008年 142/143頁

 --- 参照 ---
(1) 天津市出身。苦学して日本留学[1985〜89年]。夫人は、留学先で出会った日本人。 文化交流活動担当者と見てもよいのでは。
(2) 「全国政協委員、繁体字の使用再開を提案」 人民網日本版 [2009年3月9日]
  http://j.peopledaily.com.cn/94473/6609702.html
(3) 馬英九総統: “大陸の「識正書簡」の文化的意義” [2009/6/24] 台北駐日経済文化代表処
  http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=96451&ctNode=3591&mp=202
(4) CCTV-《漢字五千年》 参考サイト
  http://www.youtube.com/watch?v=IKmdZek2iPA
  http://www.eshufa.com/html/50/n-8650.html
(5) 「寧夏大麦地で中国最古の絵文字発見 甲骨文字より数千年前」 中華人民共和国駐日本国大使館 [2005/10/06]
  http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/whjl/t215151.htm
(6) 南方周末 [2009-04-15] http://www.infzm.com/content/26982
  梁文道: 「漢字、国家与天下」 http://www.infzm.com/content/26985
  朱大可: 「漢字革命和文化断裂」 http://www.infzm.com/content/26984
(7) 岩月純一: 「ベトナムは漢字を廃止したのか?」
  2009/7/15 EALAI オープンセッション#1 「漢字の磁場―東アジアにおける文字原理―」
   http://www.ealai.c.u-tokyo.ac.jp/ja/images/EALAI_OS%231_iwatsuki.pdf
(字体の歴史) 「書 尚風のPage-書のはなし」 http://www.geocities.jp/nis0362/hanasi-rekisi.htm
(新体字・繁体字・簡体字の検索) 佐藤正彦: 「漢字変換道具」 http://homepage3.nifty.com/jgrammar/ja/tools/tradkan0.htm


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