↑ トップ頁へ

2009.11.2
 
 


柏葉で感じたこと…

柏餅の発祥は近世と言うのが正しい見方らしい。
 柏餅の葉は、必ずしも柏でないことが調査結果からわかったそうである。(1)自明な話ではある。柏の木は西日本にはほとんど自生していないのだから。柏餅と呼ばれていても、たいていは、多年草に近い「サルトリイバラ」で代用するのである。(2)
 柏は、古い葉が落ちないと新芽が出ないという俗言等から、武家や商家の“家督が絶えない縁起物”として使われたそうだ。(3)江戸の頃だという。「サルトリイバラ」も同じなのかはわからないが。
 今や、「サルトリイバラ」の葉も輸入品だったりする。不正輸入摘発でわかってしまったのである。(4)ここまでくると、柏餅は縁起モノではなさそう。

ウエブで“定説”を広げたい人ばかりで嫌な世の中だ。
 上記を書くにあたって、出典を示してあるが、格好をつけたい訳ではない。消えてなくなる可能性がある情報源を引用したところで、それほどの意味はないのである。
 どんなポリーシーで書かれているサイトを見たのか、感覚的にわかるとよいのではないかと思い、つけているだけにすぎない。
 だが、たったこれだけのことで、結構、精神的に疲れてくる。というのは、引用できそうなサイトは稀だからだ。検索すると、「定説」とされる話をどこからか内容をコピーしてきて、一言加えただけのサイトが五万と登場してくるから。スパムメールのようなものである。
 まあ、コピーが習い性になっている人が多いのだろうが、ビジネスマンがこんな風土に慣れきってしまったら、イノベーション創出どころではなかろう。こまったもの。
 当然ながら、疑問とか、違う見方が書いてあるものには、滅多に出会えない。小生は検索に余り時間をかけないが、それでも途中で検索意欲を失う。

柏葉の議論でも、様々な考え方を並べることが出発点だと思うのだが。
 柏の葉で言えば、冒頭で述べた縁起かつぎで使われていることが“定説”だと皆で確認し合って喜ぶ人ばかり。
 小生には、これは言葉の暴力的支配と感じるが、そんなことを言うと頭がどうかしていると言われるかも。これが日本の特徴である。
 こんな状況を黙って見逃すと先々どうなるのかね、などと言えば誰も相手にしなくなるだろう。

 要するに、ものの読み方は色々あり、それを並べることに意義があるのだが、それがわからない人が跋扈しているということ。

 例えば、柏の葉と昭和天皇の話がある。本の名称は忘れたが、昭和天皇の料理番が柏餅をお出して失敗したというのである。全てを食すことにしているため、葉もお食べになり、あれは硬かったと侍従に語ったという。
 ウイットに富む話にはことかかないから、そのまま受け取る訳にはいかないが、小生は、柏の葉を捨てる訳にはいかなかったのだと思う。

 そう言われれば、気が付く人もいるのではないか。そう、宮中の新嘗祭で使われる飲酒用容器は「本柏」なのだ。そして、御饌を盛る「窪手」も柏製。取り皿「枚手」とは柏の葉だ。御箸は、竹製のトング型折箸だから、相当に古い時代の祭祀形態から来ていることが想像される。
 これだけで、柏の由来がただならぬものがわかる筈である。近世に現れたというようなものではないのである。
 柏餅は、江戸時代に流行ったのは確かだが、それが柏の葉を使い始めた起源とは思えまい。
 そんなことを知っている人は少なくないと思うが、皆知らん顔。

議論をしたいなら、知っておくべきことがある。
 こんな話をしても、なにを主張しているのかわからない人が多いと思う。“日本の”Wikipediaや新聞サイトを眺め、テレビ番組視聴に時間を割いていると感覚が変わってもおかしくないからだ。
 異なる意見や、変わった見方を示そうとしないものばかりだから、それが当たり前と思ってしまえば、頭を使わなくなる。後は、細かな違いにばかり目がいき、大きな流れについては皆と一緒という体質が骨の髄まで染み込んでしまう。これに早く気付かないと。

 柏餅の話をしたければ、もともと節句なのだから、中国での柏の扱いを見て、その観点から柏葉とはどうなっているか検討すべきだろう。わからないなら、そう書けばいいだけのこと。
 実は、中国と日本もどちらも「柏」を神聖視しているそうだ。ところがである。全く違う木なのだ。
 “中国における「柏」は
    ・常緑樹である
    ・葉および材によい香りがある
   というこの二点が大きな特徴となって 中国人に神聖視されたとおもわれる。
  また、日本における「カシハ」は
    ・葉が大きく美しい
    ・枯れてしまってもすぐに落葉しない
   という点から、やはり古来神聖視されてきた。”(5)そうだ。
 こんな話を聞くだけで、冒頭の説の正当性に疑問が湧いてこないか。

視野を広げたくない体質は、大学で叩き込まれた結果なのでは。
 こんなことを言うと、ウエブのような一般人が集まるところだから、そんなことを望むのは無理と考える人も多いかも。
 しかし、素人でも、疑問を感じる人はいるだろうし、感性的に合わないと思う人はいてしかるべき。それがさっぱり見当たらないのは異常では。
 もちろん、他人の見方に「賛成」と表明することだけで嬉しい人も大勢いるのは間違いないが、そんな人しかいない、民度が低い国ではなかろう。
 こんな状態に陥っているのは、学者の体質から来ているように思われるのだが、どうかネ。

 日本の学者は「専門馬鹿」と揶揄されることが多いが、それと繋がっているのでは。
 おっと、こう言うと、誤解を生むか。専門だけで視野が狭いということだが、真意が伝わらないことが多いのである。
 それがわかったのが、企業のドクター採用インタビューでの話。逸材を見つけたというのだ。企業とは無縁の専門分野以外なにも手をつけていない方で、ビジネスの知識も皆無。だが、皆が是非にというのだ。
 おわかりだろうか。誰もが「専門馬鹿」とは思わなかったのである。ココがポイント。
 何のための研究をしていて、何を目指していたか、説明が皆を納得させたのである。この人はプロだと、企業人を唸らせた訳。
 おわかりだろうか。

 この方は、とっかかっている問題について、今、どのような見方があるか、全体像を素人がわかるように的確に説明したのだ。これこそ、広い視野そのもの。その分野の知識量とは違うのだ。詳しい知識ばかり述べても、他の見方がどんなものでどういう意義があるのか語れないと、視野が狭いとなるのである。全体像がわかると、研究のどこが新しさなのか、そして、何が素晴らしい点かが、聞き手に伝わってくるのである。これができない人は、「専門馬鹿」とされるにすぎない。最悪なのは、他の説を聞かれて、その欠点をあげつらう態度をみせること。そんなことを知りたい人などいる訳がないことにも気付かないのである。
 異なる視点が生まれた背景とか、その考えの意義を説明できる能力が無いことを、自ら示しているのだが。
 日本の一流大学に、こんな研究者が多いのは、人材の質が悪いからではない。大学で、そうなるような教育が行われているからに違いないのである。そういう体質を強化するように、教員を集めていれば、当然の結果だろう。

 バイオブームの頃、将来を嘱望される研究者の話を聞いたことがある。日本でポジションは無いがとりあえず帰国すると知人に話したら、就職先を色々あたってくれたのだそうだ。その結果、教授ポストを用意したから、何時ごろ赴任できるのかという電話が突然かかってきたという。これには、仰天したらしい。
 言うまでもないが、就任せず、再び海外に戻ることに決めたそうだ。
 これが典型。それぞれの分野で力がありそうな人を集めれば、それが最高の教育につながると考えていることがよくわかる。要するに、大学はコネ作りの場ということ。
 様々な見方の逸材を集めて、その混沌から産み出る知恵を期待している訳ではない。要するに、「定説」を世間に広めるための技術を習うのだ。新たな説を生み出すスキルを磨く方向とは逆に進んでいるということ。

Wikipediaの英語と日本語を眺めると彼我の違いが感じられるかも。
 こんな話をしても理解できる人は少ないかも。
 違いを感じたいなら、Wikipediaの英語と日本語の差を色々と眺めて見るのがお勧め。全く違うプリンシプルで記載されていそうな感じがしてくるからだ。
Eタイプ Jタイプ
「定説」を記載する。
異なる見方の存在を示唆する。
できる限り、色々な見方を列挙する。
「正論」を記載する。
対立する「おかしな説」の内容も描く。
変な意見を主張する勢力があることを語る。
「定説」の論理を分りやすく説明する。
他の意見を生んだ背景を知らせる。
「正論」関係情報を沢山提供する。
正当性の根拠となった情報を指摘する。

 おわかりだと思うが、日本ではJタイプが好まれる傾向が強いのである。証拠が沢山あると、正しいと考える訳だ。この結果、どんな違いが生まれるか考えてみることをお勧めしたい。以下はその例。
Eタイプ Jタイプ
「定説」の説得力の根源となっている論理が見えてくる。

「定説」以外の論理もありそうだという気になる。

「定説」が正しいとは限らないと感じる。

「定説」と異なる論理で考えてみたくなる。

「定説」が正しいとは限らないが、なかなか優れていると思えてくる。
「正論」と「おかしな説」で説明しにくい点がわかる。

「正論」とそれ以外の違いは、証拠の数という気になる。

「正論」の疑問点がひっかかる。

「正論」の疑問点を探りたいが、情報が無いからなにもできない。

「正論」の信用度はわからないが、これしかないと諦めて従う。

 Jタイプとは、考古学で言えば、自分が取り扱った発掘調査から結論を出すだけの、論理を欠如した主張のようなもの。仲間が集まり、これが正しいと決めてしまう。その説に合わぬ発掘結果は無視。もちろん自己主張は強烈。しかし、そのうち、どうにもならなくなることもある。そうしたら静かにするだけ。
 Eタイプは全く違う。説得力を持つ論理あるいはものの見方が根幹なのである。これが正しいかどうかではない。ここが重要である。
 トロイ遺跡の発見は、ロマンでもなんでもない。歴史資料の、都合の良い部分は史実を反映していると見なし、都合の悪い部分はすべて作り話と決め付ける主張に、論理性の欠片もないことに気付いただけのこと。

 --- 参照 ---
(1) 竹石涼子: 「かしわもち、うちはコレなんです 葉っぱ17種類確認」 朝日新聞 [2009年5月2日]
  http://www.asahi.com/national/update/0502/TKY200905020090.html
(2) 「植物雑学事典 サルトリイバラ」 岡山理科大学 植物生態研究室(池田研)
  http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/monocotyledoneae/liliaceae/sarutoriibara/sarutoriibara.htm
(3) 「端午の節句 ≪かしわ餅≫」 和菓子喜屋
  http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/paper/pp08body.htm#tango6
(4) 「北朝鮮から植物葉を不正輸入容疑/元貿易会社社長を書類送検」 四国新聞社 [2009/08/13]
  http://www.shikoku-np.co.jp/national/social/article.aspx?id=20090813000264
(5) 長岡美佐: “「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化”
  http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/98nagaoka.html


 文化論の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
    (C) 1999-2009 RandDManagement.com