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2010.5.19
 
 


トヨタ車リコール問題を振り返って…

トヨタ車リコール問題では、“日本人”的見方ばかり目についた。
 トヨタ車のリコール話が一段落したようだから、気にかかったことをメモしておこうか。

 間違ってはこまるが、リコール問題を検討したいのではない。この問題に対する、日本国内でのとらえ方に危惧の念を抱いたにすぎない。
 大方は、直接口に出しはしないが、これはバッシングだろうというニュアンス。これでよいのか、考えておく必要があるのではなかろうか。
 この見方が的を外していると思わないが、問題はそのバッシングの理由である。なんとなく、トヨタのイケイケドンドン調子に腹を立てたのだろうという感覚で眺めているように見受けられるが、それはどんなものか。この手の発想は本質を見抜く“勘”を鈍らすのではなかろうか。

 米国では、日本と違い、成功している企業への嫉妬という感覚が表立って出ることは稀。怒りを呼んだとしたら、ルールを破ることで得をするような姿勢に見なされたからだろう。
 もちろん、そんなズルさは世界中どこでもあるが、日本の対応は独特である。実害が小さければ“又か”で諦めるのが普通。米国で発生する“断じて許せぬ”とは対極的と言ってよいのでは。
 そんな社会では、ズルではしていないことを納得してもらうことが重要となる。これを怠ると、社会から駆逐される可能性さえあるということ。この点については、寛容ではないのである。
 従って、そうならないように、普段から、社会の一員としての“自覚”が必要となる。

 トヨタの場合、この観点では、本来は叩かれにくい筈。現地雇用は十分すぎりほど生み出しているし、製品そのももののファンも少なくない。本来なら、応援層はぶ厚いのである。
 にもかかわらず、嫌われたことに目をやるべきでは。

 小生は、相当異質な企業との印象を与えたからではないかと見ている。
 例えば、これだけグローバルな企業になりながら、経営層はほとんど日本人だし、男ばかりなのである。人種や性の差別疑惑を呼びかねない状況であるのは間違いない。
 しかも、すべてのことで自社基準を貫こうとしているように映る。世界標準をただただ嫌う体質と見なされているかも。
 そうではないといくら説明したところで、理解してもらえる保証は無い。ここはおさえておくべきだと思う。
 「知恵と改善」と「人間性尊重」のトヨタウェイを対外的に発表したからといって、こうした状況を耳にしたら、一般の西洋人にどう映るか考えておく必要があろう。

 公聴会後の企業内部の集会の映像にしても、どんな風に受け取られたか気になるところ。組織一丸となって危機を乗り越えてきた企業だから、経営トップがその一体感で感涙にむせべば、日本人なら理解できる。しかし、欧米では違和感を覚えるシーンだったかも知れないのである。トップがリーダーシップを発揮できない、得体の知れぬ組織に映ったかも。

 欧米の人々は自分達のことを理解してくれると、勝手に解釈すべきではないのである。

西欧の人々は、もともと日本に異質なものを感じている筈。
 実は、こんなことが気になったのは、最近、ひとりよがり的な風潮が強まっている気がするからでもある。
 その最たるものが、一神教の世界は自然を征服するような発想で問題をおこすというもの。要するに、日本は多神教で寛容だというのである。
 さらに、その神は自然のひとつひとつに宿るから、環境を大切にする流れに一番合っていると主張したりする。

 こんな主張を一神教の教徒が聞いて、どう感じるか考えてから公言した方がよいと思うが。西欧の知識人は滅多なことで宗教について言わないからよくわからないが、見方はその逆ではないか。
 パールハーバーや特攻隊を覚えている限り、多神教といっても、日本人だけに吹く“神風”信仰であり、外人には非寛容と見なされている可能性は高かろう。
 自然のなかに霊を感じることを“美”と勝手に思い込むのも、ひとりよがり。一神教での、自然の美しさを愛でるのとは全く違う印象を持たれていることを忘れるべきではない。
 日本人は岩や狐を信仰する人達と見なされるのである。そして、手が何本もあるような異形の偶像も含め、なんでも信仰する体質ともされている。これらがどう映るか考えておいた方がよかろう。小生は、日本の文化についてわかっている人を除けば、好印象を与えることはまず無いと思うが、とうだろう。

 なんと言っても厄介なのは、一神教と多神教という話でなく、日本の宗教では経典や戒律を全く意に介していない点。(日本の仏教は、経典を和訳して伝える宗教ではない。内容はわからないが“お経”だけは唱えるタイプ。経典宗教の徒からみれば、これは呪術の世界である。)
 経典の民から見れば、これは宗教とは思えまい。おそらく無神論より気味が悪いと思う。

 その感を強めるのは、人が神になるという話を聞かされる時だと思う。一神教にも聖人や預言者は沢山いるが、ヒトはあくまでも神が作ったもの。神になるなどあり得ない話だから、どうにも理解できまい。
 そうなると、どんな印象をあたえるかは言わずもがな。霊がヒトに憑く信仰と見なされるだけのこと。暗闇でトランス状態になるカルト的宗教の一派とされておかしくない。
 あるいは、悪魔に誑かされたイメージかも。

 ともかく、日本文化を知らない人達からみれば、異質な信仰に凝り固まった人達に映るのは間違いない。この点をわきまえて、話すべきだと思う。

トヨタウェイの文化的背景を理解してくれるとは限らない。
 先ずは自分のことをよく知ることである。

 例えば、小生は、トヨタウエーの本質は、単純な合理主義には従わなかったことにあると見ている。西欧の一般の人に理解してもらうには、ここを説明することが重要だと思うが、その前に、日本人がそれを理解しておく必要があると思う。

 経営からすれば、成果が大きく、すぐにできることに注力するのが鉄則。逆のことはしない。誰でも、当たり前となるだろう。
 しかし、すぐにできるが、成果が小さいものはどうするかとの問題になると、単純に答えにを出す訳にはいかない。合理主義的に考えるなら、できるだけ簡単で成果も大きい方にシフトすることで、効率向上を図ることになる。
 しかし、日本では、これが通用しないことが少なくない。効率は悪くても、やった方がよいものは、やらないですますのは気分が悪いのである。(半導体のパッケージの印刷が多少ずれただけで不良品としたことに、米国の経営者が仰天したことを思い出す方もおられよう。)これを職人根性と呼ぶ人もいるが、日本の文化でもある。
 トヨタウエーの原点はココなのではないか。やった方がよいことは、できる限り追求するということ。
 当然ながら、当初の効率は落ちる。しかし、そんな頭のなかで考えた算数がずっと成り立つとは限らないのだ。塵も集まればではないが、小さな効果でも蓄積すればたいしたものに映ったりする。そうなると、成果計測の尺度が変わったりする。実は、大きな成果が生まれていたりするのだ。当初、そんな効果は計算されていないし、それを目論んでもいないが、ダイヤモンドを掘り当てたりするのである。
 積み重ねの改善活動でしかなくても、そこからイノベーションが生まれる可能性があるということだが、改善活動をしていればイノベーションに繋がるというものではない。
 「知恵と改善」と「人間性尊重」では、その本質は伝わらないのではないか。


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