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2010.8.4
 
 


日本語ローマ字表記について…

そういえば、ひらがなタイプライターを作った学者がいた。
 2010年7月3日、梅棹忠夫京大名誉教授が亡くなった。小生も、「文明の生態史観」を読んで衝撃を受けた口だから、ひとつの時代が終わったという感じがした。
 こういっては何だが、相当な無理がある主張という印象は否めなかった。しかし、当時は、その強引とも思える発想に逆に惹きつけられたものである。考えさせられることが多かったし、その知的で独特なスタイルこそが、独創性を生む秘訣のように映ったからだ。

 今にして思えば、このスタイルを生み出したのは、個人の資質というより“京都”の土地柄という気もする。比類なき文化的蓄積の地をバックにしているとの自負心に支えられていた学者だったのは間違いないからだ。

 だが、今でも、よくわからないことが一つある。エスペランティストであるのはわかるのだが、日本語のローマ字表記論者でもあったことが理解を超えていた。ともかく、ひらがなタイプライターまで作ってしまった訳だから、本気である。

日本語ローマ字化は床屋談義の題材には使える。
 フィールドワークを重視する文化人類学者というのに、この姿勢というのは、どうにも解せなかった。といっても、どんな主張を展開されたのか、まともに著作を読んだことは一度もない。小生は、この手の主張はすべて無視してきたからだ。

 というのは、ローマ字化など床屋談義以上ではないと見ているからに過ぎない。
 素人でも、ローマ字化の主張などすぐにできる。・・・世界的に言語の表記文字はアルファベット化が進んでおり、ロシア語等が使うキリル文字にしても、英語とたいした違いがある訳ではない。従って、アルファベット化の流れに乗らない限り、世界のなかでコミュニケーションを円滑に図ることは難しくなる。日本にしても、誰でもがローマ字表記できる状態なのだから、時間がかかっても、そちらに移行したらどうだ。・・・そんな所か。

 ただ、それなりに実感できる主張だった。もちろん、電卓が超高額品だった時代、英文タイプライターを使うような人には、という意味ではない。筋は通っている主張だからだ。書道文化を考えなければ、少ない文字で、すべての言葉を表記できるなら、便利この上ないのは当たり前だし。
 それに、ベトナムの実例もあげることができるから、実践性もありそうに見える。そのお隣の十三億人の大国にしても、いくいく先は漢字を捨ててアルファベット化という毛沢東言語政策を着々と進めているように見える。おそらく、日本留学でローマ字普及に感銘を受けた魯迅以来の悲願だろう。

日本語変革はドグマに近い。
 しかし、この手の見方は日本語の現実を見据えていない。ドグマと言っても過言ではなかろう。

 ただ、それは言いすぎと感じる人が多いかも。
 中国で考えれば、漢字を捨てることは大変なことだが、その気になればアルファベット文字化が可能なのは間違いないからだ。独裁政権だからという意味ではなく、普通語が普及さえすれば、それを発音表記のアルファベット文字に変えればよいだけのことだから。(学校以外では、ほとんど使われていそうにない発音表記文字だが、その気になれば誰でもすぐに使える。ただ、発音表記のアルファベット配列の国語辞書が普及しない限り無理である。)
 日本なら、誰でもローマ字を書けるのだから、同じように決断だけだと考えれば、おかしな主張とはいえない。
 ところが、そうは問屋が卸さない。
 ベトナムや中国が転換可能なのは、例外はあるが、表意文字とされる漢字が事実上表音文字化しているから。それに対して、日本はその兆候さえない。状況は全く異なるのである。
 日本では、同音の漢字熟語ががゾロゾロ状態。“書き言葉”を“話し言葉”に変換するには、文脈からの想像が必要で、厄介極まる。漢字一文字の読み方が複数あるのなら、始めから表音にすればよいなどとはいかないのだ。それに、意味を表す基本部分が漢字とその変化部分がひらがなという仕組みだが、その差異が自明でなくなり単語の切れ目がわからなくなるのも理解を妨げることになる。

 要するに、ローマ字日本語を読むには、文脈を読み取る高度な能力が不可欠ということ。日本人は、そんな能力を身につけている訳だが、それは表意文字を使ってきたからだ。ここが肝。
 翻訳本が矢鱈多いのも、舶来崇拝だけでなく、こんな能力があるからかも。特段の鍛錬無しで速読可能だからだ。いくら夜遅くまで仕事があろうが、その気になれば一日新書一冊読破程度ならどうということはない。
 そんな言語に慣れきっている民に、その表記文字を捨てろと要求するのは無理な話ではないか。
 実際に、絵本に書かれているひらがな文章を読めば、その困難さはすぐわかる。単語の切れ目や、文章の構造さえわからず、恐ろしく苦労するのだ。それでも、少しすると、不思議なことにすらすら読めるようになる。その理由は、話の筋が推定できるのと、“絵”があるから。頭のなかでイメージが浮かぶと、文脈を推定して読めるのだ。日本人は、根っからの“表意”文化であることに気付かされること請け合い。
 研究対象としては、実に面白い言語だが、1 億人が使うような言語とは思えない代物。

日本語は雰囲気で意味が変わる特殊な言語であり、問題は多い。
 この“表意”文化だが、実は、“書き言葉”に留まっている訳ではない。
 “話し言葉”も同じようなもの。場の雰囲気で、言葉の意味が変わりかねない言語なのである。“表音”とは言い難いのである。それは、英語を習い始めた途端に誰でもがわかる。そう、“Yes, I don't.”問題。日本語は、相手に合わせて、言葉遣いを変える必要があるのだ。
 細かな説明は省くが、会話の場で、感性を共有できないと、まともなコミュニケーションにならない文化ということ。感情や情緒の機微を伝えるには格段に優れた言語だが、コンセプトとか哲学のような普遍的な意味を伝えるのには不向きなのは致し方ない。
 このことは、表記言語化は簡単な話ではないことを意味する。場の雰囲気を理解する人達の会話を記載するなら、音を写せば意味が通じるが、書き言葉だと場の雰囲気は自明ではないから、それを説明しないと、意味は伝えられないことになる。これは簡単なことではない。

 文化人類学者が、そんなことに気付かない訳がない。そうなると、ローマ字表記にすべしという主張とは、こうした体質を転換すべしということだろう。「農業→工業→情報産業」と変わっていく世界のなかで、文脈というか、場の雰囲気で意味が変わるような、狭い社会でしか通用しないコミュニケーションはそろそろ止めたらという提案だと思われる。
 それに、いかにも京都の学者らしい主張でもある。万葉集では、漢字が表記文字として使われており、ローマ字表記でその原点に戻ろうという感覚が生まれておかしくないからだ。(新語創出は和語ではなく、もっぱら漢字熟語になったことへの不快感もありそうだ。)

 だが、表音文字化とは、“場”の言語体質からの離脱を意味する。それはどう見ても無理筋だろう。コミュニケーションが機能しなくなる組織だらけになるからだ。競争力を失う企業だらけとなり、経済が持つまい。

“場”で生きる民族との自覚が必要だろう。
 例えは悪いが、ローマ字表記を導入すれば、若い層の“引き篭り”現象のような齟齬が、大規模に発生しかねないということ。
 小生は、“引き篭り”現象とは、生きていくための“場”が見つからない人が増えているだけと見ている。社会学者は、“引き篭り”層はコミュニケーションが不得手だから、スキル教育でなんとかしようと考えているようだが、発想が逆だと思う。普通は、生きていくために無理にどこかの“場”に参加する。そこで自然にスキルが身につくということ。スキルは独立している訳ではない。
 そんな人達を減らしたいなら、スキル教育より、ドグマ的な自我や個性を重視する教育を変える方が早道。生きていくためには、自我や個性の主張を抑えるしかないのが現実。自宅も含めた現実社会がそうなっていることを教えないから、こうなるのである。自我や個性を打ち出せるのは競争の勝者になれる、自活能力がある人だけ。その競争という現実さえも、教育現場は忌避し続けている。これでは解決どころの話ではない。

宗教観を考えれば、“現在のような”日本語を続けるしかなかろう。
 小生は、100年というレンジで考えでも、日本語のこうした特徴は生き続けると思う。アルファベット表記にはならないということ。
 それは、電子処理ができるというテクニカルな理由ではない。若者の宗教観が変わるとは思えないからだ。海外から見れば、日本人総体としての宗教は、呪術的な要素濃厚な多神教の異様なゴッタ煮に映るだろうが、日本人から見れば違和感などない。“場”に合わせ柔軟に教義や戒律を設定できる宗教に馴染んでいるからだ。これは、言語とそっくり。
 特に重要なのは、経典を気にしないということ。例えば宗教記載欄に仏教と書く人でも、経典など読んだことも見たこともなく、お経を聞いてもその意味は全くわからないのが普通。民度が低いのでもないのに、これは世界でも珍しかろう。しかも、墓地へ行けば訳もわからぬサンスクリット語の卒塔婆だらけ。要するに、普遍的な宗教哲学を信仰する気などさらさらないということ。宗教においても、“場”の雰囲気を了解し、参加者が儀式の意味を自分から理解するよう要求されている訳だ。この方式に反抗したりすれば、村八分。これが日本の社会の実態である。

 おわかりだろうか。言語は宗教を反映しているのである。

 漢字圏で言えば、宗教は儒教・道教。これらの経典を重視するなら、それに合った言葉にするしかない。従って、儒教を受け入れた満州や北方系民族が独自の文字を失ったのは当然の流れ。一方、大中華圏に入りかねなかった東南アジアでも、仏教・イスラム教圏には漢字が入らなかったのは逆の意味で当然である。
 要するに、ラテン語系のアルファベットが世界を席巻しているということは、新約聖書を経典とする民族だらけになっているだけの話。世界で見れば、自分で読めない経典の宗教を信仰する民族は滅多にいないということ。ちなみに、旧約聖書の民は、ヘブライ語を復活させるしかないし、イスラム圏はコーランに親和性ある文字を使う。それだけのこと。

 日本人が現在のような宗教観を維持する限り、ローマ字を多用することはあっても、ローマ字表記主体にすることはできないのである。文脈とイメージを重視するから、ゴッタ煮言語体制が続くのは間違いない。もしかすると、表意文字が増えるのかも。
 すでに、携帯絵文字が実用的レベルに達しており、確かに、それは短い文章で、感覚を一瞬で伝えるのには優れているのだ。
 美しい日本語とは、ある特定の“場”での最適表現であり、携帯絵文字通信も、その“場”では美しい日本語となっている訳である。日本語が乱れているのではなく、今までのまともな“場”がなくなっているだけのこと。


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