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2013.10.20

シリア情勢から猫文化を考えてみた…

シリアの状況はとんでもなく悪化しているようだ。
国連によれば、すでに難民登録者数は200万を超すそうだ。当然ながら、未登録の数は含まれていない。なにせ、国内で住む場所を失った人々が400万人というのである。実数としては、難民500〜600万人ということで、ほぼ人口の1/4というところのようだ。
そんなゲットー生活よりはましとはいえ、今迄通り住み続けている人々の生活もえらく酷くなって来た模様。戦乱で孤立状態の地域では、犬猫を食べることが容認されている状況とか。

イスラム教徒は信仰が篤いことで知られるが、そんな人々が猫肉食に踏み切るというのは余程の緊急事態と言ってよいだろう。もともとシリアの街に犬はいなかった可能性はあるが、猫は違う。社会的に大事にされていた筈で、どこにでも猫が住んでいたと思われる。どういう猫が多かったかはわからぬが、シャトルリュー似の、銀灰色で毛足が長く忍耐強い猫かも。ヒトも猫も我慢を重ねてこの地にたどり着いて、生きてきたのは自明だからだ。
それはともかく、このことは、全イスラム圏に対して、シリアがSOSを発信したということ。

この辺りの感覚は至極わかりにくいかも。
小生は、イスラム圏が世界で猫を一番大切にしていると見るからでもある。マホメットが猫好きだったという話が知られているからにすぎぬが。

一方、西欧の猫好き文化は所詮は階級社会のなごりでしかなく、その文化は浅薄なもの。イスラム圏の貴人が美しい特別な血筋の猫を飼っていることの真似であり、所詮はお飾りから生まれた習慣でしかない。それが嬉しい人が多かっただけの話。
従って、西欧は基本的には猫好き文化ではない。ここに関する西欧の歴史の偽造は多そうだから注意した方がよいと思う。

ご存知のように、中世キリスト教文化は反猫である。ほとんど殺戮対象だったと見てよいのではなかろうか。だからこそ、ペストが大流行したとも言えよう。
小生は、この時期、猫肉が大いに食べられていた可能性も高いと見る。おそらく、そのような歴史はすべて葬りさられているとは思うが。もちろん猫愛好者がいた筈だが、隠れて猫を飼っていることがわかれば、悪魔信仰者と見なされて火炙りの刑に処せられるのは確実。そんなことをあえてする御仁がいるとは思えまい。現代の感覚から見れば、暗黒の中世というのは当たっている。
ドイツの猫祭りにしても、アッパーミドル層が力を持ち、自ら愚か者と称して馬鹿騒ぎができるようなった時代というだけのこと。それは、せいぜいが1873年でしかない。ちなみに、法律好きなこの国で猫肉食禁止令が発布されたのは、もっと遅くになってからのこと。なんと、20世紀だ。わざわざ、そんな法律を作る必要がある社会だったのである。

そんな西欧のキリスト教的感覚が残っている国もある。野猫の徹底的殺戮を行っていそうな国のこと。推測にすぎぬから間違っていたらご勘弁だが、オーストラリアでは、おそらく野猫に対しては抹殺方針で臨んでいるのではなかろうか。もともと猫などいなかった土地なのであるから。
ヒトは神のご意志を実現すべしという考え方そのもの。実利上問題がなければ徹底的に方針を貫くことになろう。エジプトの猫墓を破壊し、ミイラをすべて肥料にする感覚はこんなところから来ていると見てよい。異端撲滅ということ。この辺りに無頓着の方が多いようだが、注意が必要である。

一方、市民社会での猫のペット化の流れを作ったのは、こうした動きとは全く無縁である。ここはしっかりとおさえておきたいもの。小生は、一重に米国文化の力と見る。
トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」での猫の扱いが、それを如実に物語っていると言えよう。ホリーの言葉というか、まあ、オードリーの台詞だが。
  「かわいそうに名前だってないんだから。
  名前がないのってけっこう不便なのよね。
  でも私にはこの子に名前をつける権利はない。
  ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで、
    名前をもらうのは待ってもらうことになる。
  この子とはある日、川べりで巡り会ったの。
  私たちはお互い誰のものでもない、
    独立した人格なわけ。
  私もこの子も。・・・」
    U
    =
    U
  「前に言ったわよね。
  私たちは川べりで出会ったのよ。
  ただそれだけのこと。
  どちらも一人きりで生きていくの。
  お互いなんの約束もしなかった。」
   (村上春樹訳 新潮社 2008)
小生など、「一人きりで生きていくの。」と言って、その後、言葉にならなくなってしまう情景を考えた瞬間に、ウルルな訳だが。現代の日本の若者にはそんな心情はさっぱりわからぬ可能性もなきにしもあらず。猫は癒し動物そのものだし、雑誌もそれを扱った猫特集とくるのだから。

もちろん、非イスラム圏でもネコ好き民族は存在する。
なんといっても圧巻は、仏教国のシャムである。こちらは、都市の貴族層発祥で、ミドルクラスにペットとして広がった訳ではなく、功徳の対象だったにすぎまい。
だから、全国津々浦々で歩き回っている筈だ。社会学者は、鼠を獲るから農村部に多いと見るかも知れぬが、ソリャ飼う方の理屈付けを真にうけただけ。猫とは、どう見ても、好きな人に合わせた生活は大好きだが、役に立つようなことをするのはえらくお嫌いな動物というのが、小生の見立て。

そうそう、昔、バリ島に毎年遊びに行っていたので思い出すが、猫はえらく大切な動物として扱われていた。犬とは大違いの待遇だが、ヒンズーの猫神など聞いたことがないから不思議。
要するに、東南アジアは様々な文化が残っているのである。まともな研究がされているかは知らぬが。なにせ、ベトナムでは卯年は無く、猫年だというのだ。なんだコリャの世界である。その理由を語れる学者がいるとは思えまい。どう見ても、この分野の学問ははなはだ無力なのである。

この辺りの感覚と相容れないのが中華圏。
「なんでも食べよう」思想と真正面からぶつかり合うからだ。それが、ヒトをヒトとした由縁かも知れぬが、どうも受け入れがたいのだ。
なにせ、食用の活きハクビシンが市場で売られているお国柄である。空飛ぶモノと4本足で食用にしない例外はよく知られているが、それがまんざら冗談とは思えまい。偏見と言われかねないから、皆、黙っているが、2本足の例外がなんといっても恐ろしい。(小生は、「両親」と聞いたが、子供を食材に提供するのも吝かではない文化だった訳で、聞くだにつらいものがある。)
そんな状況で、農村に野猫がいるとも思えないし、街猫が容認されるとはとうてい思えない。例外は租界等で西欧文化が広がっている所だけではないのか。

それを考えると、朝鮮半島も含めた大陸では、昔から犬猫肉は薬的な上等な食材とされていたのでは。(ついでながら、西欧から見れば、日本もこの文化圏内の一国にしか映るまい。日本人も犬猫を食する民族と見られている可能性は限りなく高い。まあ、日本人から見ても、どうしてこんな違いが出るのか説明できない訳だから致し方ないが。)
そうそう、大陸では、野生の希少動物は間違いなく垂涎の眼で見つめられる対象。「幸運にも」それを食すことができれば、体に絶大な力が漲ってくるとの信仰が根付いていると見てよいのでは。これを、法律等の強制力でなんとかしようというのは無理筋。

(記事)
「犬や猫も食用に」、イスラム指導者が認める シリア 2013.10.17CNN
シリア難民キャンプで見た5つの事実 by Aziz Abu Sarah National Geographic News September 24, 2013
(独メスキルヒの猫ギルドによるカーニバル)
Katzenzunft@Messkirch http://www.katzenzunft.de/


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