表紙 目次 | 2014.6.15 中国の料理文化圏中華麺の話をするが、その前に、繰り返しになってしまうが、前置を。これを欠くと、意味が伝わらないので、我慢してお読み頂きたい。 小生の選んだ中国の4大料理は以下。 (1) <北方民族料理圏> 代表:北京(京)料理 (2) <江南料理圏> 代表:上海(滬)料理 (3) <亜熱帯モンスーン料理圏> 代表:香港(港)料理 (4) <雲貴高原料理圏> 代表:雲南(少数民族)料理 (選外) <山東(魯)料理> <四川(川)料理> これをトンデモ話と言うなかれ。 漢民族が支配する中国の実態を直視するなら、当たらずしも遠からずだからだ。・・・ 中華帝国の歴史とは、北方民族の支配下にありながら、文化的融合を進めることで漢化が進んだというお話でもある。中華選民意識に裏打ちされたフュージョン文化こそが、連綿と四千年も続いてきた「中華文化」の正体でもあろう。 従って、料理圏を考える場合は、基層にある食文化を「想定」しないと、表層的な政治的喧伝に乗せられる。 まあ、その方が大いに愉しい人が多いからこそ独裁政治が成り立つ訳であるが、小生はご免こうむりたい。 ともあれ、誰でもわかるのは、北の肉食と南の米食の2大系統があるということ。おそらく、主食とお数の概念は両者の合体からきたものだろう。 これでは流石に大雑把すぎて、食文化が見えてこないので、さらに分けることになる。 しかし、北の文化をこれ以上分けるのは考えもの。 北方民族料理は「胡・ウイグル」「蒙古」「満州・東北」を独立させるしかなかろう。(尚、東北の「韓」は原初が華北民族のようだから、孤立系と見るべきかも。)これに対応して中原や四川盆地といった高原台地と、渤海湾岸の「漢」をひとまとめにできるなら、細かいとはいえ、わかり易い。ところが、実態を見るとバラバラである。「漢」の発祥の地と目される西域との接点地帯の文化の残り香もしない。そうなると、細分化するしかなくなり、まとまりがつかなくなる。 従って、「北」は<北方民族料理圏>の1つで十分。 一方、米食の「南」は、2分されている。 いかにも古代の息吹を残しているのが、<雲貴高原料理圏>である。揚子江域から追い出された百越の棲家とも言える。ここは圧倒的な糯米食圏。これこそ、もともとの東アジア米作域の姿では。 多数の少数民族料理を単にまとめただけだから、てんでバラバラ。なにせ、語族や宗教が四分五裂状態だから、しっかりとした共通性で貫かれている訳がないのである。しかし、その多様性を発揮しながら、糯米を最上の食べ物とし、野趣を好む食文化を続けているのは間違いない。従って、ココを中国の一大料理圏と見なすのは真っ当とはいえまいか。 もう一つは粳米の食文化。北京官語(標準語)が通じない地域でもある。一つにまとめてもよい訳だが、揚子江下流の沿岸部と、比較的語族がまとまっていて、華僑的素地が色濃く、いかにも南シナ海文化に染まっている地域は、分別した方がわかり易かろう。 ・・・という結果が上記4大料理圏という訳である。 それにしては、料理圏の代表都市に上海や香港を選定するのは、腑に落ちぬとなるかも。 確かに、200年とか100年の歴史しかない都市だから、そう感じて当然だが、歴史ある都市の方が独自文化がよく見える訳ではない。よくよく見れば、他地域からの影響が色濃かったりするからだ。 前置きが長くなったが、このような4大料理圏を設定すると、どうしても真性「漢」の料理が消えてしまう。 しかし、それが実態ではなかろうか。 民族的に異なるとはせず、殖民で「漢人」域化しながら、土着層を帝国人民の「漢族」とみなして囲い込んでしまったから、原初的「漢人」食文化は他の食文化と融合して見えなくなってしまうからだ。結局のところ、各地の土着食文化が目立ち、原初的漢料理の筋がわからなくなってしまう訳である。 従って、<北方民族料理圏>のなかに入れるしかない。しかし、同時に<江南料理圏>や<亜熱帯モンスーン料理圏>の影響も大きいから、フュージョン型細分化圏とでも呼ぶしかなかろう。 だが、面積的に広大な官語圏地域を料理圏に設定できないとなると、中国全体を眺めている気がしなくなる。ここが悩ましいところ。 それではどうしたらよいか。 まあ、「料理圏」的発想から離れ、官語漢族料理の代表というか、別格的「中華料理」代表を設定するしかなかろう。言うまでもないが、それは、山東料理や、四川料理ではないし、北の辺境たる北京に移住した漢族の料理でもない。 <山西(普)料理>である。 ただ、一般的にはそのような扱いをされている料理では無かろう。 観光スポットは少なくないが、太行山西麓で山がちの地域なので、食材的な卓越性が発揮できるとも思えないからだ。黒酢は有名だとはいえ、それが名物料理に繋がっているとも考えにくいし。 にもかかわらず、この地は中華料理四千年の伝統食文化を彷彿させるものを持っているのである。 さすれば、山西(普)料理の心髄とは何そや? その答は簡単である。ここが類い稀なる<麺[Ch.: 面]料理>の中心地だからだ。 中華文化影響圏にはすべからく麺料理がある。それが山西発祥という訳ではないが、食する方にしてみれば、それが中国の文化であることを100%認識しているのは確か。 それほどに強烈なインパクトを与える料理なのだが、「麺料理こそ命」の地域は意外に少ない。と言うか、山西しかないかも知れぬ。 このことは、山西が、中華食文化の「粋」を極めるべく注力してきたことを物語る。真性「漢人」食文化の心髄ここにありである。 日本で中華料理といえば、ラーメンと焼餃子ということで、冗談半分に書いている訳ではない。 全体を俯瞰してみると、麺料理こそが、中華の心髄と考えられるからである。 ただ、ラーメンのイメージでとらえてはこまる。 その辺りをご理解いただくために、最初に、拉麺との違いを示しておこう。 日本ではB級グルメ流行りで、ラーメン(日式拉麺)への入れ込みようは凄いものがある。 それを見ていると、明らかに、スープ命の料理であることがわかる。名称とは違い、麺はつけたしに過ぎぬ。 誤解を招く言い方だが、ここが肝心な点。ラーメン作りの名人芸になればなるほど、麺にも凝っているが、そこで追求しているのは、あくまでもスープに絡んでくれるような品質。さらに、スープの味わいを引き立たせるための食感を工夫しているだけ。麺自体の美味しさを考えている訳ではなかろう。 中国大陸では一般には「湯(スープ)」が重視される。しかし、それはスープとしてと言うより、「お数」の旨み付け用。このことは、拉麺で重視されるのは、スープではなく「具」ということになろう。日式では「具」とは、雰囲気盛り上げのトッピングか、サイドディッシュを載せたにすぎないのは明らか。薄切りチャーシュー一枚など、ほとんどお飾りであるし、茹で卵など、別皿で供してもかまわない筈だ。 中国の基本思想は、あくまでも主食と「お数」。ワンプレートならぬ、ワンボールによそったものが麺食と見るべきだろう。場合によっては、「湯」と混ぜるから、スープ風に見えるが、「湯」の旨みを加えた汁分が多い「お数」と考えるべきだろう。 従って、原則的には、スープが自己主張してはまずい。汁はできる限り少ないにこしたことがないのである。 なかでも大きな違いは「麺」。 「具」が「お数」で、「麺」は主食という役割なのだから、「鹹水」を加えてわざわざコシを出す必然性は無いことになる。そういう食感をたまに楽しむのは面白いという程度ではなかろうか。日式のようにはなるまい。 (「鹹水」は英語ではLye waterで、パンのベーキング・ソーダに対応。アルカリ性であり、石鹸そのもの。同音の「梘水」表記が一般的。) ざっと眺めた感じでは、コシ強化麺は竹竿でしごく、澳門/マカオの竹升麺くらいではなかろうか。鹹水を入れるにしても極く少ないようだし。 さて、そこで<山西(普)麺料理>だが、麺に着目すると以下のようなものがあるようだ。(切、拉、擦、刀、剪、漏、剔、揪、托、搓、etc.・・・) 「具」や「スープ」の種類が豊富というのとは訳が違う。つまり、麺そのものに入れ込んでいる訳だ。基本調理は茹でだが、汁なしで和えモノにしたり、炒めたり、揚げてもよいのである。しかも、乾麺ではなく、生麺である。 刀削麺 刀拨麺 剪刀麺 柳葉麺 一根麺 剔尖麺 猫耳麺 翡翠麺 剔尖麺 揪片莜麺栲栳 紅麺擦尖(高粱) 豆麺抿尖(豆) 餄烙麺(燕麦) 凉粉(芋) 問題は、このインプリケーション。 だらだらと長くなったので、それは又改めて。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |