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2014.8.27

河原の原初信仰について

「原」という文字はもともとは「」で、"がけ"の「」に、「泉」で、崖から水が湧くことを意味する文字だったそうである。
小生は、今の今迄、「ハラ」とは、未開拓の平らに広がる大地を意味する言葉と思っていたから驚いた。

つまり、基本的なイメージは平原、広原/曠原だったということ。そこに存在する植物の状況を加えるなら、こういう表現にかわることはあるが。
  葦原、芝原、浅茅が原、藪原、・・・。
草原あるいは野原が基本概念としか思えまい。
ただ、葦だと、湿原とか河原の可能性もあろう。
植物にとって、旺盛な成長が難しい高地の場合は、高原とよばれたりもする。
さらに、雑草が茂っているとか、裸地や岩が入ってくると荒原となる。
尚、草から樹木へと概念を拡大することも可能である。疎林も原と見なしてもよいのである。
 杉原、松原、・・・。
そうそう、海原もあったか。

こんな風に考えてしまうと、「原」は、どちらかと言えば水流が目立たない地に思えてしまう。

だが、原初を考えてみると、「清水が湧く」とか、「清水が流れる」開けた地ということなのかも。開けたというのは、その境がわかるということでもあるから、それが崖ということなのだろう。

そんなことを、つい考えてしまうのは、古事記で、天ッ神が住む場所が高天原(タカアマハラ)とされているから。わざわざ、「アマ」と読むべしとの注記があるのが印象的。「アマ」とは、海のことでもあるからだ。従って、中国概念の「テン」とは違うから注意せよという指示なのであろう。
まあ、それも当たり前の話か。国生みは瀬戸内海の小島から始まり、帰路でもある最後が五島列島の小島となっているのだから。天皇家に伝わる歴史とは「海人」の事績と系譜であることを冒頭で明示したかった訳である。

つまり海人が治める島国ということ。実際、地形的には山々だらけで、「原」と呼べそうな、平らな広い地域はほんの一部でしかない。にもかかわず、国の名称は、豊葦原瑞穂國。「原」の国ということになる。
葦のように成る神が元祖で、その係累が「原」に住んでいることを示しているのだろう。
そんなこともあり、古事記における「原」とは、神々が居ます所という概念と見なすとよいのかも。

実際、アマの八百万の神々が集まるの場所は、天安之河原。
ここで、大いに気になる訳のは、「河」原という点。葦原とか、青草原とは違って、草木なき広場 というイメージが生まれる訳だが、それでよいのだろうか。

そんな気分になるのは、「河原」と聞くと、仏教の、彼岸に渡る際の河のイメージが湧くからである。言うまでもなく、三途の川の「賽の河原」。この言葉だけで、亡くなった嬰児が父母恋いしということで小石を積む情景が浮かんでくる位有名だが、仏典には「地獄の河原」という記載はないようだ。
と言うことは、当初の「原」のイメージである。「斎の河原」を消し去るために新たな見方を導入したとしか思えないがどうなのだろうか。

海人の目線で「河原」を考えるとしたら、それは「海原」から初上陸した「浜」と同様な位置付けなのでは。「浜」も、「河原」も、その辺りに居つく最初のとっかかりになった場所であり、いわば原体験の地ということになろう。
ただ、航海者の立場で考えてみればわかるが、その場所自体を拝むことはなかろう。「海原」から見えるのは、山であり、岬だったろう。そうした目印こそが崇拝対象となるに違いなかろう。島なら、目立つ高峰のこともあろうが、普通は沖合から判別し易い尾根の端山だったと思われ、低山が多いのでは。

神奈備と呼ばれる、樹木に覆われるほっこりとした山も、定着した土地の目印ということで、こうした慣習を内陸部に持ち込んだようにも思えるのだが。
天香久山、畝傍山、耳成山の出自はそんなところでは。もともと、大和盆地は湖あるいは湿地だったから、これらは山というよりは島という感じだったのでは。その辺りに行く場合の決定的目印だったことになる。言うまでもないが、それを崇拝する場合は、浜か河原からとなる。
日本最古の神社の一つである大神神社は拝殿だけで、依代の本殿はなく、直接ご神体である三輪山を拝むことになるが、これは「浜」における山祭祀のスタイルを踏襲したように思える。ご存知のように、古事記では、そのご神体は海の向こうから光り輝いて出雲に渡来した大物主こと大穴持和魂とされている。直截的に記載されてはいないが、海蛇であることを暗示しているとしか思えない。つまり、渡来蛇信仰が原初の山霊信仰に習合したということになろう。大神神社とは、当初は「河原」だったのが、仏教渡来で拝殿建築物が必要となり、現位置に落ち着いたと見る。

このように考えると、宗像(胸形)大社の辺津宮(タキツ毘売命)・中津宮(イチキシマ毘売命)・沖津宮(タギリ毘売命)を線で結ぶと、その直線は朝鮮半島の方向に向かうという記述は逆ではないか。
沖津宮とは、沖の小島であり、気象と海流を司るご祭神と見てよかろう。海人にとっては、対馬海流航行にあたって最重要な地。ここで一服して、潮目や風と天候を判断したに違いなかろう。従って、極めて重要な信仰対象になって当然な感じがする。一方、大島は、沖ノ島から一番近い陸を目指す際の目印そのもの。従って、この2島を結ぶ直線の先の浜が、祭祀の場となる筈。ただ、浜の地形は変化するから、安定的に使用可能な場所が選ばれるようになったと思われる。

こんな風に考えるのが自然な感じがするのだが如何。

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