表紙 目次 | 2014.11.19 猪文化を考える [5:猪信仰]「猪之歌」、「老鼠愛大米」(香香[Xiang xiang:ネット・アイドル歌手]) が流行ったのはもう10年も前のこと。他愛もない歌詞だが、大陸では、十二支で馴染みのブタやネズミが親しみ易い動物であることがよくわかる。特にブタは仲良くしたくなるタイプであるに違いない。なにせ、ゴロゴロ寝てばかりいるくせに、食べ物にこまらずブクブクと肥るからだ。悩みとは無縁そう。その上、多産とくるから、豊かさを感じさせるピカ一的存在といえよう。 一方、海を隔てた島嶼の日本では、十二支はブタでなく野猪こと「イノシシ」になる。もっぱら猪突猛進動物としての扱いであり、余り良いイメージではなさそう。 どうも、それは大和朝廷がつくり出した結果らしい。 と言っても、古事記と日本書紀での記載の違いからの推定に過ぎぬが。 両者は、「ヰのシシ v.s. 鹿のシシ」の状況にあったと言わざるを得ないのである。ちなみに、万葉集だが、鹿は題材にされているが、猪は完璧に無視である。 と言うことで、古事記に登場する猪を見ておこう。・・・ 大国主神は赤猪に模した焼けた大石、倭建命は山の神の化身である白猪によって命を奪われる。 そして、朝鮮半島遠征から帰還してきた皇后、息長帯比売命は、御子の偽装喪船を出し、反乱勢力を立ち上がらせる際にも猪が登場する。反乱首謀者の一人、麛坂皇子は、怒る猪によって、登っていた櫟の木を倒され、なんと食い殺されてしまう。 そして、天皇の葛城山行幸シーンが圧巻。天皇は鏑矢を射るのだが、なんとそれに怒った猪に樹上に追いやられる。今上天皇は全く力が及ばない訳である。換言すれば、猪は古代天皇の変わり身と考えられていることになろう。 天皇登幸葛城之山上 爾 大猪出 即 天皇以鳴鏑射 其猪之時 其猪怒 而 宇多岐依來 故 天皇畏其宇多岐坐榛上 尚、祈狩の対象が猪だった話も出てくる。力の象徴のような獣を倒すことで、その威力を頂戴する信仰が定着していたということだろう。 小生は、こうした古事記の猪話は、半農耕半狩猟的生活の時代のなごりと見る。その頃は、猪が神的存在と見なされていたのである。 ところが、日本書紀は、神々しい鹿の方は取り上げるが、猪については完璧と言ってよいほど無視を決め込む。猪信仰を払拭しようと務めているかのよう。この姿勢は、半農耕半狩猟から、灌漑農耕主体社会の転換を意味していると考えてよいのでは。 猪も鹿も農耕生活の視点から見れば作物を荒らす害獣だ。しかし、生命への危険性と農作物被害の実情から言えば、イノシシは頭抜けている。特に、水辺での泥堀は灌漑システムを壊しかねないから、見過ごす訳にはいくまい。貴重な獣肉源ではあるものの、灌漑農耕にとっては敵以外のなにものでもなかろう。 それに、春日大社のご祭神武甕槌命は常陸国鹿島神宮から白鹿に乗ってきたとされていることも、鹿との扱いに差がついた理由だと思われる。 但し、猪も正史以外では、それなりの扱いを受けている。 「天皇後継者は皇族たるべし」との宇佐八幡ご神託を伝えた和気清麻呂公は、足の腱を切られ流罪になったが、猪は群れをなして救ったという話があるからだ。(高雄神護寺境内の護王神社)しかし、まあ、その程度でしかない。 (尚、古事記では、豚飼いと思しき一族の存在が見て取れる。肉用家畜ゼロでもないのである。・・・迫害者の山代之猪甘(山城の豚飼)を探し出し、一族の膝の筋を切った話が掲載されている。天皇の威光が隅々まで届いている例証と考えられるが、そうだとしたら、豚飼いはおそらく社会の最下層とされていたのだろう。) そんな時代からすれば、ずっと後世のことだが、対馬では害獣絶滅作戦が敢行された。焼畑耕作地での被害が余りに深刻ということで。もちろん、それは、森を開墾して農業用地にした結果でしかない訳だが。・・・ 1687年、生類あわれみの令が発令。その渦中、対馬府中藩は、1700年12月に「猪鹿追詰」を開始。結果、1709年には猪を絶滅させたと言われている。一方の鹿は完全に追い詰めずで完了したようだ。 わざわざ対馬を取り上げたのは、対馬山猫はどうにか生き延びてきたから。猫、猪、鹿は、古代から森に棲んでおり、ヒトと一緒の生活を送ってきたことがわかる事例である。 どんな動物がいたかは、今では想像もつかぬが、台湾の森に棲息している動物を見れば当たらずしも遠からずだろう。ただ、狼だけは分布していないが。 台湾山猪[ニホンイノシシ同類] 台湾水鹿、梅花鹿[ニホンジカ同類]、山羌[キョン] 長鬃山羊[タイワンカモシカ] 台湾黒熊[ツキノワグマ相当] 台湾雲豹(多分絶滅) 石虎[ベンガルヤマネコ亜種] 白鼻芯/果子狸 台湾栗鼠[ニホンリスとは異種] 台湾獼猴[ニホンザル相当] 穿山甲[ほぼ最北分布.揚子江以南の大陸に同種] 山猫が生きていけた森なのだから、日本の古代は、半定住の半狩猟・半農耕生活が可能だったと見てもよいのでは。推定でしかないが、植物食としては以下のようなバラエティを誇っていたと思われる。 雑穀(蕎麦、陸稲含む)と豆(大豆、小豆) 芋(里芋、山の芋) 根、等(葛、蕨、百合根、筍) 若芽、幼葉類 堅果類(栗、樫、椎) 果実類 いずれも、猪にとっても大好物。従って、現代感覚では、ヒトの敵とされてもおかしくない。しかし、それは灌漑農耕社会の視点で見るからだろう。半狩猟・半農耕なら、これらをヒトと分かち合っていてもおかしくなかろう。どうせ、口に入る訳なのだから。つまり、家畜ではないが、多分に家畜的であったとも言えるかも。 これでは説明不足か。 農耕で重要なのは、雑穀プラス豆の混栽焼畑技術ではないかと思う。一見、粗放だが、経済生活全体では、、それが最適解であり、決して技術的に劣っていた訳ではないと思う。そのシステムはかなり高度なものだった可能性は高い。ただ、それは狭い地域毎にノウハウが必要となる。灌漑技術のような、中央集権的な高度技術による生産性向上の波には乗れない社会なのである。と言うか、対立的と言ってもよいだろう。従って、国家建設にとっては猪文化は邪魔モノ以外のなにものでもなかったろう。 それがどんなものか、想像で描いてみようか。 先ずは、農耕。もちろん焼畑である。 森を焼いたら、そこで3年程度、畑として活用。毎年順番に最適な作物を育てた筈。モノカルチャーでなく、稲も含む雑穀と豆の混合栽培が多かったと思われる。どのようなミックスにするかで収量が大きく変わった筈である。猪鹿骨のト占で決めたと見る。 その後、栽培放棄すればそこは葛畑状態になろう。根栽農業である。それはやがて、ススキの野になり、家の材料用地と化す。火入れすれば、最終的には芝地となり、灌木が生えることとなる。それは燃料に使われたりする訳で、なかなか合理的な土地利用ではないか。 その一方、比較的温暖な湿地帯があれば里芋も栽培しただろうし、森では山の芋の放置栽培が行われていたに違いない。それを、現代では野生の自然薯と呼ぶだけのこと。 こうした芋は、熱帯雨林地帯の焼・蒸ではなく、生や煮料理方法で食すことになるから、温帯性の独自品種の可能性もあろう。 そんな気分で、植物食材を眺めれば、そこには旬を愛する発想の原点が見えてくる筈である。 ここで終わってはいけない。以上は生活の半分でしかない。半狩猟を見ておく必要があろう。 その対象には、もちろん魚も含まれる訳だが、北方の鮭・鱒漁がどこでも可能だった訳ではないし、鯉・鯰系統は濁水地でそう簡単に獲れることもなかったから、重要な食糧源は森の獣であることは間違いない。もっぱら鹿と猪ということになろう。 鹿狩りは、おそらく夏に総出で行ったのではないか。労働効率を考えると、それが一番よさそうだから。まあ、得意な人は通年だった可能性もあろうが。 しかし、猪狩りのパターンは全く異なると思う。食べ物が欠乏する冬季だけでは。鹿とは違い、森で発見するのは容易なことではないから、住んでいる地域におびき出す筈である。 ちょっと考えてみれば、そうしていそうかはすぐわかる。移動焼畑を行っているのであるから、住居は複数あるに決まっている。従って、現代で言えば里にあたる住居から、全員撤収するのでは。 当然ながら、そこは冬季の猪にとっては垂涎の地であるから、惹きつけられる。というか、普段から、両者は共通の食で併存してきた仲間でもあった訳で、当然のようにして里に入ってくる。そこを、犬とともに追い込めばよいだけで、現代の狩猟とは違い、実に簡単に仕留めることができる筈。矢、槍、落とし穴など、方法はいくらでも。ある意味、野獣と家畜の中間ということになろう。 ざっと、こうした生活を眺めると、そこには「生活」の哲学がありそうな気もしてくる。 どうせ台風などの自然災害で、人工的に作ったものは壊されてしまうから、それに逆らわずに、知恵を働かして、上手く対処していこではないかということ。大規模灌漑農業や牧畜という流れは大嫌いということでもあろう。 これこそが「猪信仰」の原点では。 (参照) イノシシを知る 農林水産省 www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/pdf/1shou.pdf 石神裕之:「古代文芸と鹿・猪の意識について−考古学的視点を織り交ぜて−」三田國文 30 14-30 (19990930) 慶応義塾大学学国文学研究室 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |