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2015.4.15

「犬、いぬ」の絵

「わたし、犬、いぬ」は"0655"の歌。(うちのますみ 作詩)

それとは無関係だが、渋谷区立松濤美術館の展覧会「いぬ・犬・イヌ」に行ってきた。昨年の「ねこ・猫・ネコ」は混み合いそうなので避けたが。

狩野芳崖が安政5年頃に描いたとされる、狆を抱く「毛利姫像」(下関美術館蔵)が出品されるということで。
   リーフレット[pdf] 出典リスト[pdf]

姫君の気品が狆の存在で映えることがわかる貴重な作品だと思う。

ところで、その「狆」=「」+「中」だが、その「中」を、家の中("内")で飼うという意味と見るらしいが、愛玩動物として座敷で飼う猫と、庭にいる狗(犬)の"中間"ということでは。ともあれ、犬ではないとされたようだ。
ところが、その一方で、「小さい犬」→「チン」となったと見るらしい。
それなら、上記の漢字由来説から、「小狗」となる筈。整合性がとれていないではないか。どうして、このような説を平然と受け入れることができるのか理解に苦しむ。
「狆」の撥音部首たる「中」が"trjuwng"(現代普通語:chung)で、それをチンと表記しただけの話ではないのか。

こんなつまらぬことをついつい書いてしまったのは、俵屋宗達「狗(犬)図」(西新井大師蔵)を眺めたからである。よく見かける腹白の黒犬が描かれているのだが、かなりのデフォルメ。思わず吹き出してしまうような姿。その背景には竹。実に、簡単に描いたような印象を与える絵である。
それにどういう意味があるかと言えば、・・・。
  𥫗+犬=𥬇=笑
ワッハッハ。

宗達と言えば、有名な「たらし込み」技法の解説で登場するの「狗子図」[→(C) 2009 MIHO MUSEUM]だが、これも不思議なモチーフである。
画中の子犬に愛想を振りまく気はなさそう。クンクンしながらコレナンダカナというご様子。つまり、見る側がそこから勝手に子犬の可愛さを想うだけ。画中の子犬は淡々と歩んでいるだけ。
これはなにか?
こちらは簡単に解ける。無門慧開の公案、最初の「趙州狗子(狗子仏性、趙州無字)」ということ。
もちろん、別途、この続きが用意されている。[「五燈会元」第4]・・・
Q:「上は諸仏より下は螻蟻に至るまで皆仏性あり、
    狗子甚麼として却て無きや?

Q:「既に是れ仏性、
    什麼としてか這箇の皮袋裏に撞入するや?

趙州和尚:「他の知って故らに犯すが為なり
ハハハ。
仔犬はそんなことを超越した世界をのんびり歩んでいそう。それこそが可愛さの根源なのである。

どこまで本当かはわからぬが、日本の歴史画の大家、安田靫彦最愛の絵だと言われている。(遺品の品@MIHO MUSEUM)その靫彦の絵も出展されているから面白い。気楽に流したような作品である。(「狗子」伊豆市蔵)
そうだったのか。
小生は、思わず、小倉遊亀の「径[こみち][→(C)東京藝術大学大学美術館]を思いだしてしまった。和犬の可愛さが凝縮されたような絵である。

インド仏教美術に傾倒する画家、畠中光享(1947-)、2015年の作品「花と犬」は、そんなことを考えていると、どうしてもじっくりと眺めてしまう。
そう、花とはもちろん蓮。それとは別のシーンとして同居するのが、ボーとした眼つきでこちらを眺める犬。
愛らしいとは言い難い。それは眺めている人間の鏡像かも知れぬという気になってくる。


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