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■■■"思いつき的"十二支論攷 2015.10.21■■■

十二支の「羊」トーテム発祥元を探る

🐏羊トーテム部族と言えば、イの一番に羌[羊+儿]/チャン族があがる。今でも、誕生、婚礼、葬儀では先ず間違いなく羊に関係する儀式が取り行われている筈である。
四川省北部岷江峡谷に居住しているが、この地に限らず、すぐ北方の青海やその奥に当たる西蔵にも。さらには雲貴高原にも羌族末裔と称する集団(苗/ミャオ族.瑶/ヤオ族,/トン族)が存在している。

もちろん、この状況を漢民族に追われた結果と見れないこともない。炎帝が羌族の祖で、漢民族は炎帝を打倒した黄帝の子孫となっているからだ。しかし、羌族とは真正の羊遊牧民であり、移住体質濃厚。草地を農耕地に変える勢力には本質的には敵対的というにすぎまい。つまり、端から、2分裂せざるを得ないのである。非遊牧民を支配すれば定住化してしまう訳で、それを嫌えば遊牧し易い方面に移るしかないということ。
言い換えれば、定住型の初期の漢民族とは羌族色だらけとも言えよう。

ただ、軍事的に今一歩力を発揮できなかった。本格的な砂漠地帯を抱えている上に、山岳地帯をもテリトリーにしていたから、草原を行く北方遊牧民のように騎馬の方向に進めなかったからである。
従って、漢民族帝国は、次第に馬トーテム族に差配され、混然一体化してしまう。そうなると、羊トーテム族は、漢民族からさらに遠ざかっていくしかない。
しかし、漢民族の基底文化を形成した民族としての自負があるから、自立はするものの、帝国を凌駕する力がある訳ではないから、鵺的な存在で生きていくことになろう。おそらく、早くから帝国の枠組み支持勢力化したに違いない。それにより、周辺部族に対して支配的な地位を占めることができることになる。だが、それは独自文化の継承が難しくなるということでもあろう。つまり、現代の羌族文化は変質している可能性が高いということ。
一方、帝国文化に飲み込まれないように、羌族的に振舞う部族も存在している筈。こちらはもともと文化的に繋がりは無いから、両者を一緒に考えるべきではなかろう。
尚、現在の共産党政権は、羌人を中華民族の重要な源のひとつと認めているようだ。単に、「孟子・離婁下」に、周朝の始祖"文王[B.C.1152-B.C.1056]生於周、卒於畢郢。西夷(西羌を指す)之人也。"と記載されているからだと思うが。
   「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里」人民中国インターネット版 2009年11月

要するに、周の女系は姜ということ。(羌姜は鳳凰と同じように、♂♀対の単語だったと思われる。)そして、殷墟出土品にも、羊形象が多く、羊トーテムの影響が見てとれる。羊肉の味は正しく、美[=羊+大]であり、最高の御馳走として天帝に捧げるべきもの。

ただ、殷墟[王墓]では羌族の斬首10体がまとめて埋葬されており、生贄にされたのは間違いなかろう。
この時代、去勢された羌族の奴隷が多数存在していた筈で、その手法は繁殖用意外の雄羊に対する羌族の技術をそのまま流用したものだと思われる。

ただ、羊を家畜化したのは羌族ではなさそうである。野生の羊は以下のような種のようで、羌族あるいはその周辺であれば、アルガリを育種した筈だが、それは角が大きく、曲がりも目立つので、どう見ても原種ではなさそう。一般にはムフロンが原種と言われているが、それはメソポタミア領域に近い。そこから、中国の西域に伝来したと考えるのが自然。(以下が羊の代表的種。)
●アルガリ/盤羊/Argali
 ・沙漠地帯
 ・[中国]内蒙古〜華北
 ・[モンゴル南東]ゴビ沙漠
 ・[モンゴル西]阿爾泰山脈
 ・カザフスタン東北部
 ・カザフスタンバルハシ湖周辺
 ・カザフスタン中/南部ポカラ
 ・ウズベキスタン北東部

 ・アルチン山脈
 ・チベット〜ネパール

 ・[キルギス・中国]天山山脈
 ・パミール高原

●ムフロン/摩弗倫羊/Mouflon
  アジアムフロン/赤盤羊/Mouflon[Oriental] or Red sheep
 ・アルメニア-アゼルバイジャン
 ・[イラン]ザグロス山脈
 ・<絶滅>アナトリア、クリミア半島、バルカン半島

●ヨーロッパムフロン/Mouflon[European]
 ・[新石器時代移入]コルシカ,サルジニア,ロードス.キプロス
●ウリアル/赤羊/Urial
 ・東イラン
 ・タジク
 ・トルクメン
 ・ウズベク
 ・アフガン
 ・バロキスタン
 ・パンジャブ
 ・ラダク
 ・カシミール

[家畜]/綿羊/Domestic Sheep
○ビッグホーン/大角羊/Bighorn sheep
○ドールビッグホーン/白大角羊/Dall sheep
○シベリアビッグホーン/雪山盤羊/Snow sheep

想像に過ぎぬが、羊遊牧民となって西に移動していったのが羌族で、メソポタミアへと移動して定住化したのがシュメール人ではないか。
ウルク王朝初代王(Lugalbanda)[ギルガメシュの父]は羊飼いとされているからだ。
しかし、イラク南部ウルの王墓から出土したのは、いかにも種付け役の印象を与える牡山羊像。地域全体では羊尊崇が広がっていた訳ではないと見てよさそう。ゾロアスター教(拝火教 or 教)が生まれたと思しきイラン高原側は山羊遊牧中心だったろうから当然かも。インドのリグ・ベーダの世界でも、登場するのは山羊である。太陽神スーリヤの使者「プーシャ/Pūṣán」は陽光の力を持つ牧畜神だが、太陽神の乗り物を牽引するのは山羊なのだ。ついてながら、ギリシャ神話の牧神アイギパーン/Aigipānやローマ神話のファウヌス/Faunusも山羊なのでは。聖書レビ記の罪祭のための供え物にしても、牛と山羊であって、羊ではないのである。

羊尊崇はエジプト(テーベ)だけかも。ただ、羊の種類が相当違うようだ。太陽神「アメン/Amen」は神獣の羊だが、角は丸く巻いている。獅子が従者だから、その辺りに棲息しているのだと思われる。ナイル川を司る神「クヌム/Knum」も羊頭だが、角が水平に伸びておりおそらく絶滅種である。このことは、これらは野生の羊を生殖の神として崇めたということでトーテムとは縁も縁も無いということになろう。

牧羊は盛んだが、羊トーテムの残滓文化は羌族以外には残っていないのかも。しかし、その文化も相当に変質している可能性が高い。

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