表紙 目次 | 2015.12.27 龍蛇論について十二支では、龍(辰)と蛇(巳)は別扱いである。にもかかわらず、蛇信仰についての書物を読むと、アプリオリに龍神=蛇神とされ、両者ゴチャ混ぜ論が展開される。「龍蛇」なる概念も登場するが、それは十二支では一体なんなのか質問してみたいものだ。しかも、蛇信仰の元の解説付きだったりするから驚かされる。 蛇の躯体が男根類似であることこそが信仰の原点といった調子だからだ。そこで、特に強調されるのは蛇婚話。場合によっては蛇が象徴物としての「矢」になるとの説明も。 頭の形だけなら、亀も類似だが、蛇は四肢が無い点で特別ということ。と言うか、驚異的とされるのだが、その理由は手足を欠く躯体構造。水面を泳いだり、陸上をかなりのスピードで這うことができるから、まさに超能力保有者に映る訳だ。 そこらが、無毒蛇であってもも畏敬の念を与える点とされる。(尚、脱皮については、甲殻類と爬虫類で広範に見られるもので珍しい訳ではない。) こんな風にグダグダ書くのは、足無し龍が存在していないからである。 蛇の生殖器を足を見間違う筈もない訳で、無足の蛇と四肢の龍を一緒にする自然分類など常識的には有りえない。にもかかわらず、どうして同一視したのか? この説明が全くできないにもかかわらず、それには触れることもなく、始めからゴチャ混ぜ議論をする本だらけ。そんな論旨にはたしてどれだけ意味があるのか、小生ははなはだ疑問に感じる。 例えば、龍は天上に昇り、蛇は地上を這う。畏敬という点で同一レベルとするのは一向にかまわないが、両者を同一とはみなせまい。 無譽無訾,一龍一蛇,與時倶化,而無肯專為。 [莊子 山木] 周者不出于口,不見于色。 一龍一蛇,一日五化之謂周。 [管子 樞言] 従って、「龍蛇」という言葉も、両者合同ということではないと思う。龍蛇飛動という言葉は草書的筆跡に勢いがあり素晴らしいという意味だが、これは紙の上を蛇のように這っているが、それが龍のように天上へと飛び出して行く勢いがあるということだと思われる。それなら、龍飛鳳舞としてもよさそうに思うが。 十年不見老仙翁,壁上龍蛇飛動。 [宋・蘇軾:「西江月・平山堂」] 龍蛇飛動無由見,坐愧文園屬思遲。 [宋・陸游:「次韻無咎別後見寄」] 妙墨龍蛇飛動,新詞雪月交光。 [宋・楊冠卿:「西江月・妙墨龍蛇飛動」] 元の言葉はこちらか。 時時只見龍蛇走,左盤右蹙旭驚電 [唐・李白「草書歌行」] 龍蛇之珠という言いまわしもあるそうだが、一つにまとまった靈体の珠の筈で、「龍蛇」ではなく、靈蛇之珠と考えるべきだろう。もちろん、仏典系の言葉である。もちろん、これの真似で龍の珠も存在している筈。 譬如惰侯之珠,和氏之璧, 得之者富,失之者貧。 [淮南子・説覽冥訓] 當此之時,人人自謂握靈蛇之珠。 [曹魏・曹植:「與楊コ祖書」] この感覚、おわかりだろうか。 単純に言えば、蛇に突然足が生える訳がなかろうというだけ。蛇神=龍神とするには、単純な混交とはいかず、かなりの飛躍が必要な筈と見る。 実際、「竜頭蛇尾」と言う言葉がある。両者が異なるとされているからこそ成り立つ言葉。 その「竜頭蛇尾」だが、「碧巌録」一十則の「頭は竜、尾は蛇のよう」が語源とされている。 見ると、確かに「龍頭蛇尾」との文章は記載はされてはいるが、最初から龍とか蛇を比喩的に持ち出した訳ではなさそう。睦州が「虚頭漢」と見なしたというお話だからだ。本来は「虎頭」だった可能性もあろう。 【第十則】 舉。 睦州問僧近離甚麼處。僧便喝。 州云。老僧被汝一喝。僧又喝。 州云。三喝四喝後作麼生。僧無語。 州便打云。這掠虚頭漢。 兩喝與三喝。作者知機變。 若謂騎虎頭。二倶成瞎漢。 誰瞎漢。 拈來天下與人看。 この虎頭の初出はわからねど、中国語の解説には必ず出典としてあがるのが以下。 這廝敢狗行狼心,虎頭蛇尾。 [元.康進之]「李逵負荊」第二折] 他にも出典は色々とあるようで、大陸での表現はもっぱら虎頭ということのようだ。 官府挨捕的事,已是虎頭蛇尾,前緊後慢。 [「水滸傳」第一百三回] 才算這桩事作得不落虎頭蛇尾。 [「 兒女英雄傳」第二十三回] と言うことは、龍頭の方は現在ほとんど使われないことを意味していそう。どうやら、南宋・釋普濟:「五燈會元」卷第十六に「龍頭蛇尾」が見つかる程度。 小生なら、どうせ虎頭にするなら、鼠尾にすればピッタリと思うが、流石にそれはやり過ぎということか。 話題がズレできたので、ここまでとしよう。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |