表紙 目次 | ■■■ "思いつき的"仏像論攷 2015.7.9 ■■■ 仏像分岐分類の考え方仏像分類は、奈良・京都のお寺巡りの修学旅行をした人だとある程度はご存知。簡単な説明がついたガイドブックが配られるからだ。(もっともそんなことはとっくに忘却の彼方で、ゼロから知識を詰め込む方も少なくなさそう。)たいていは、4分類。稀に、「その他」がついてくる。 わかったようなわからないような代物だが、そういうことだからそのまま覚えよとされる。素人には手の出しようがないから、従うしかない。 暗記すると、仏像鑑賞がことのほか面白くなるらしい。 ともあれ、この分類に、誰も疑問を感じないようだ。 ただ、仏像とはどこまで入るかについてコメントがついていたりするから、多少は気になる人もいそう。 例外的だが、本来は「如来」だけが仏像との解説も見かける。直接吐露していないからなんとも言えないが、4分類とは単に世俗的なものと言っていそう。 と言うことで、少々考えてみたくなった。 まず4分類だが、こんな具合か。 如来・・・悟りを開いた。 その象徴が螺髪と頭の形か。 衣(衲衣)だけの山岳修行僧の姿。 たいていは、蓮の台座と光背附き。 菩薩・・・悟りを目指し修行中である。 装飾品を身に着けており、貴族の姿。 指導を仰ぐ如来のお印を提示する。 明王・・・威圧的折伏活動を旨とする。 [上記の化身とする密教思想のみ。] 焔光,焔髪,怒りの形相。 宗教的武器や各種装身具装着。 天・・・・元来は非仏教だが、仏教に帰依した。 有力な勢力の代表の姿。(当然、多種多様。) 異教の神々(鬼神や女神)が代表的。 武将なら、仏敵や邪鬼の懲罰姿も。 他に、王や高官、老人、童子、鳥獣、等。 わかり易いが、宗教の理解を深めるとも思えない。 あたかも宗教的な観点で眺めているように工夫しているにすぎず、本質的には「外見」からくる"単純"分類の一部でしかないからだ。 山中修行者の姿 修行中の王族の姿 僧侶の姿(剃髪,袈裟着装) 忿怒顔の呪術者の姿 武具や筋力を誇示する戦士の姿(その王を含む。) 中華貴族的服装の女性の姿 他(子供,獣,奇妙奇天烈,等を含む。) これでは、宗教観はみえてこない。切り分けが明瞭とは言い難いからだ。「1. 悟りを開いた。2. 悟りを開くべく修行中。3. 修行しないが協力者。4. 悟りとは無縁。」というのならわかるが、上記4分類では、コンセプトがよくわからないのである。 自分の頭で考える必要がありそう。 その切欠となるかは、なんとも言えぬが、2つの分類問題を指摘しておこう。 1つ目は、お寺でよく見かける像を、どこに分類するかという問題。 と言えばおわかりだろう。羅漢(釈尊の直弟子達)や租師/開山僧の像。特に、禅宗系では重視されていそう。もちろん、それ以外でも、開山堂や教祖のお堂が存在していることが多い。 そのため、4分類に「その他」として付け加えてあったりするし、「羅漢・高僧」で明確に5分類にしている場合も。 コレ、結構、扱いが難しい。言うまでもなく、悟りを目指し修行中の僧侶のなかで跳びぬけた力があったから、像が造られている訳で、何故に菩薩扱いにならないのか、気になるからだ。逆に、「その他」と見なすなら、「衆生」とたいしてかわらぬということになりはしないか。 どうもすっきりしないのである。 2つ目は、例外の存在。 如来でいえば、持物が目立つ像。 悟りをひらいても、尚、モノを必要とするとはどういうことなのか。それでも薬壺位ならわからぬでもないが、装身具を身にまとう必要性はなかろう。しかも、如来は頭の格好が特殊だが、冠で見えなくしている。それに、どういう意味があるのだろう。 菩薩は更なり。 悟りを目指し修行中というのに、憤怒顔がついていたり。それに、仏法具としての象徴的武器ではなく、殺戮用武器や髑髏まで持ち物にするというのは、理解し難い。小生なら、そうした姿なら明王たるべしとなるが。そうそう、馬が修行する訳もないのに、馬頭観音菩薩。お印があるから観音菩薩なのは確かだが、どうして馬頭明王ではないのか。馬は特別扱いなのだろうか。 まあ、化身は、なにがなにやら状態を作りだすもとでもある。まさか、それこそが仏教の本質ということでもなかろうし。 ともあれ、「例外」が混ざっており、その理由を説明できないなら、分類概念が実態に合っていないと考えるべきだろう。 と言うことで、頭を働かせれば、コレ、難しい問題でないことにすぐ気付く。 どうしてこうなるかは、素人にとってはほぼ自明なのだ。 もともと、釈尊は、偶像崇拝否定論者だったそうだし、異教の考え方にモロに晒される遺骸祭祀への係りも嫌ったに違いない。しかし、布教するには、そういう訳にいかないから、ゴチャゴチャになっているのである。 つまり、分類としては、現代生物学的に、分岐で整理するのが最良だと思う。 「仏像=仏陀の象徴」ということで、仏陀概念の進化を考えればよいことになる。 DNA解析が必要な訳ではないから、仏教知識が希薄でも、想像すればその流れは簡単に書けよう。結果、7段階になった。・・・ ┌──(0) 釈尊以前の信仰像 ┤ └┬──(1) 釈尊思慕モニュメント=宝塔(ストゥーパ[象徴墓]) ┼└┬──(2) 人間釈尊=釈尊像 ┼┼└┬──(3) 成仏釈尊=釈迦如来像 ┼┼┼└┬─(4) 釈尊一仏陀=併存多数如来像 ┼┼┼┼└┬─(5) 宇宙[自律]=毘蘆舎那仏像 ┼┼┼┼┼└─(6) 宇宙[強制]=大日如来像 簡単にご説明しておこう。 先ずは、<(2) 人間釈尊=釈尊像>から。 <(1) 宝塔(ストゥーパ[象徴墓])>を一気に擬人化する訳にいかないから、最初は釈尊入滅のお姿から始まったのでは。この場合、仏だが、ヒトのお姿でもある。そうなると、在家仏教徒にはなかなか解釈困難。大乗仏教系信仰にとっては、宝塔のママの方が望ましいかも。 しかし、涅槃像が登場すれば、当然ながら、急速な展開を見せることになろう。ほかの様々なシーンでの釈尊像が生まれること必定。要するに、釈迦族王子物語の中心人物としての釈尊像が造られる訳だ。当然、釈尊以外の像も加わろう。 浅学なので、はたして存在するのかわからないが、釈尊前生像もあってしかるべし。前釈尊時代から輪廻思想は存在しており、それが仏教にも引き継がれたことが知られている訳で。 従ってこのようになる。 ┌──釈尊涅槃像(ストゥーパ[象徴墓]代替) ┤<(2) 人間釈尊=釈尊像> └┬─釈尊一生像(誕生母子像,童子像,出家像,修行像) ┼│┼┼└摩耶夫人像,従者像,直弟子像 ┼└┬──釈尊前生像 ┼┼└┬──解脱釈尊像 ┼┼┼└┬──説法釈尊像 ┼┼┼┼└┬──羅漢像(釈尊直弟子) ┼┼┼┼┼└┬──直系高弟(教派祖師)像 ┼┼┼┼┼┼└────開山師/縁起師 この段階では、あくまでも物語の像であるから、釈尊像はヒトの姿。 登場する像も多岐に渡る。要するに、由緒話であり、重要なシーン毎に様々な像が造られることになる。 考えてみれば、弟子あっての釈尊でもある。 そして、弟子達は教派を形成し、宗教活動が本格化していう訳だ。こうなるとお堂にご本尊が必要となろう。そこで初めて、悟りを開いた状況の像が第一義的な像とされる。ご本尊、「釈迦如来」である。 ┌─<(2) 人間釈尊=釈尊像> ┤ │↓<(3) 成仏釈尊=釈迦如来像> └┬─釈尊如来像 ┼└┬─脇侍像(菩薩)+併存如来(阿弥陀+薬師) ┼┼└──未來如来(弥勒菩薩)像 一旦抽象化されてしまえば、並列的に如来が並んでおかしくない。解脱してからの姿を思い浮かべれば、自らが抱えて来た釈尊イメージとは異なる姿が浮かんでおかしくないからだ。ただ、バラバラと勝手に想定する訳にはいかないから、修行団体毎に如来が生まれ、宗派ご本尊として特定の如来が設定されてもおかしくない。 そうそう、あくまでも解脱修行の団体だから、「菩薩」像が生まれるのも自然な流れと言えよう。「如来」を約束された状況の象徴像として。それが脇侍だと思われる。(菩薩は修行中段階といっても、僧の修行とは意味が異なる。)従って、当初は、如来と菩薩の本質的な差は僅かだったと思われる。 要するに、如来という思弁的な抽象像が生まれ、悟りに達しようと指導を受ける段階の菩薩像も付随的に必要となったに過ぎまい。従って、如来と菩薩を分ける意味はそれほど大きなものではない。それよりは、如来の概念拡張が重要。抽象化によって、如来分化が始まったのである。弥勒「菩薩」とは未來の「如来」とされた訳である。コレそのものが画期的ということではなく、いわば、釈迦如来を過去仏したようなもので、釈迦如来中心から脱したことになる。 ここまで来ると、(2)人間と(3)成仏の解釈が俄然難しくなる。未來仏の弥勒菩薩は釈尊ではないとすれば、釈尊誕生前にも仏は存在したのではとの疑問が生まれるからだ。釈尊が初という論理展開ははなはだ難しくなる。常識的には釈尊は一仏にすぎないとなろう。この段階が、<(4) 釈尊一仏陀=併存多数如来像>である。 (他の仏陀の存在を認めたので、釈迦如来以外の如来が生まれるという理屈の方がシンプルだが、現実感が薄すぎる。最初から、釈尊と同格の仏陀の存在を認める意義があるとは思えないから。釈尊以外の如来が生まれ、それらの由縁を考える過程で、釈尊より先に悟りを開いた仏陀の存在を肯定せざるを得なくなったと考えるのが自然。) つまり、如来はいくらでも存在するかも知れないし、それに伴って、如来にご指導を仰ぐ菩薩も無数に存在することになる。多数の仏となるのは論理的帰結。万物に靈を感じるアニミズム型多神教に倣っている訳でなく、至極論理的なもの。 多数の仏への信仰となると、教派としては、まとまりがつかなくなってしまう。四分五裂で師と弟子という関係が崩れてしまい、修行さえままならぬことになりかねない。従って、如来像と菩薩像の表現方法が定式化されることになる。その結果が、如来形(ついに悟りを開いた山中修行者の姿)と、菩薩形(修行中の貴種/王族の姿)の緻密化。当然ながら、瞑想、説教、往還といった状況を示す必要もあるから、その約束事も決まっていく。 ところが、この方向に進むと、釈迦如来の存在はますます霞んでしまう。信仰の中心が失われていく。それは宗派形成にとっては拠り所を失うことになりかねず、こまる訳だ。抽象的な中心を創出する必要に迫られる。そこで生まれたのが、<(5) 宇宙[自律]=毘蘆舎那仏像>。菩薩から如来という思想とは無関係であり、ソコ存在する如来だと思われる。純粋に思弁だけで作られた概念であり、それに則て造られる像。 この存在で、如来は無制限に生みだすことができるし、菩薩の数は無限に近くなる。 ここで問題になるのは、<(0) 前釈尊信仰像>の存在。毘蘆舎那仏が存在するなら、それらも加えた宇宙を考えてもかまわないことになる。しかし、如来や菩薩のコンセプトに合うものばかりではない。従って、物理的な警護役とか、仏教の護法者として、周囲に存在する形にするのが無難である。 いわば、用心しながらの異教への取り組みと言えよう。あくまでも、対処であって、取り込みではない。 これを突破する動きが、<(6) 宇宙[強制]=大日如来像>。異教の神々の仏教への取り込みを図った訳である。ヒンドゥー教の神々を見れば、その風体は盧舎那仏とは全く異なる。解脱者感覚ではほぼ鬼神と言ってよいだろう。従って、一体化など無理と考えるのが普通。 しかし、それを突破する必要に迫られたのである。従って、世俗的な戦闘能力が十二分に発揮できる仏も必要になる。 そこで、突然にして、新たな2種類の仏像が加わったのである。 ・異教の鬼神を叩き潰す「"超剛力"仏」。 ・異教の非鬼神。(善神化した鬼神である。) そのまま「異教仏」として包含。 要するに、部族首領、武将、力士といったカテゴリーの信仰対象は、すでに、物理的な警護役や仏教の護法者に位置付けたが、それが難しい鬼神にも対処が必要ということ。換言すれば、異教の鬼神を取り除くことで仏法の世界がほぼ完成することになる。大日如来の力が支配する宇宙という観念に従えば自然な帰結。(すべての信仰対象を網羅する必要があるということ。) ハイライトは"超剛力"仏こと、「明王」の誕生。 唐突な登場に映るが、すでに存在する如来や菩薩の化身とすれば論理的には齟齬は無いということなのだろう。 まさにコペルニクス的転回である。 典型は、愛情欲の愛染明王。女神だが憤怒表情。呪術を駆使すると、ターゲットとする人物を"超剛力"で調伏できるということで、大流行したのは間違いあるまい。これは、日本東密だけの現象のようだ。同じ女神像でも、唐の貴族的雰囲気が醸し出されている吉祥天とはえらい違い。このような菩薩型は「明王」ではないのである。しかし、外面は穏やかに見えても、"超剛力"を発揮する明王像もある。女神たる孔雀明王は典型。呪術に用いられる訳で、蛇信仰色を残す勢力を絶滅させるということで、国家鎮護に不可欠な像だったのだろう。それがなければ、善神ということで、「異教仏」の扱いも有りえた筈。もちろん、いかにも善神といった雰囲気であっても、武器を持たせて「"超剛力"仏」にすることも可能だろう。 と言うことで、最後がこの異教の非鬼神。「その他」としても一向にかまわぬが、重要なのは「仏像」の対象という点。ここには、女神、童子、老人、鳥獣、等々なんでも含まれる。 これらを「仏像」にできるからこそ、大日如来が思想としての「宇宙」を網羅的に統合できるのである。 要するに「その他」の仏像とは、鬼神を除外した、仏教外発祥の信仰対象像。 「天」よりずっと広い概念である。と言うのは、どう見ても「天」とは「天竺教仏」像の略語としか思えないからだ。 「天竺教仏」以外を知りたいなら、七福神を眺めればよかろう。(「仁王般若経」の"七難即滅,七福即生"の福神であるから仏である。) 7像のうち「天」は3像にすぎず、過半を占めていない。布袋は達磨と雰囲気が似ており、宗派に属さないインテリ禅僧をモデルにした像臭さ紛々。そうだとすれば、<(2) 人間>ジャンルの縁起師で、「その他」仏像ではない。残る、福禄寿、寿老人、恵比寿は、誰が見ても一目でわかる非天竺教仏。前2者はおそらく「道教的震旦教仏」。後者は"夷"の信仰する神だが、「日本教仏」だろう。 細かいことを言うと、「天」とは実は「天竺教仏」ではまだ広すぎで、以下に示す「天衆仏」である。 ┌─異教の鬼神を叩き潰す"超剛力"仏・・・明王 ┤ │↓<善神化した異教仏> │┼┌────天衆・・・「天」名称 │┌┤天竺教仏 ││└────非天衆・・・夜叉,等々. └┤ ┼│┌震旦教仏 ┼└┤ ┼┼└日本教仏 ┼┼┼└他地域からの渡来神由来仏 以上、素人の7分類だが、先ずは、このような系統図で眺めてから、それに合った形で分類しないと、仏像の位置付けが決まらないのではなかろうか。表面上似ているものの一括りは、分析的には意味もあろうが、無思想性そのもの。 "思いつき的"仏像論攷の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |