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■■■ "思いつき的"仏像論攷 2015.8.14 ■■■

鬼子母神像の意味

鬼子母神とは、夜叉鬼神の筆頭である毘沙門天/クベーラの部下たる八大夜叉大将に入る、散支の妻、訶梨帝(母)/ハーリティーだそうである。
夜叉系とは天竺教の鬼神だが、武将系は仏教に帰依して守護役になった。
その妻も、当然ながら帰依することになり、「天竺教」の姿のママで仏像と化した。

従って、持物も当初のママの筈。鬼子母神の場合は例外なく果物のザクロ。出自がしっかりしているものを除けば、ザクロが無い像は眉唾臭い。
ザクロが選ばれた理由としては、酸味があって人肉の味がするからとの説が流布されている。幼児をさらってきて食していた鬼神なのでもっともらしい話であるのは確か。しかし、普通に考えればそんな釈迦の説教があろう訳もなく、鬼子母神信仰色が強い日蓮系宗派(題目曼荼羅に記載するほど重要視)を嫌った勢力がひろげた噂話と見てよいだろう。
ザクロはもともと桃や仏手柑に並ぶ吉祥果。その霊を感じ入っていた歴史が長い筈で、その靈の女神感から来ていると考えるべきでは。
まあ、とてつもない数の子供を抱えていたとされているので、多産安産神の象徴とも言えるのは確かだが。

そういうことで、常識的に考えれば、鬼子母神の発祥は想像がつく。

インドには、子供を生贄に捧げる部族がかなり残っていたということ。そんな部族の王女の夫である武将が、生贄禁忌化に踏み切ったのだろう。それを語るための天竺教の神を、大乗仏教がそのまま取り入れただけと見る。

ただ、ザクロ人肉代替品話は影響がかなり大きかったようで、持物無しでの合掌像も存在している。(日本国内だけと思われるが。)天女のような絵もあるが、それはなんでも行き過ぎだろう。
だが、鬼神といっても、その出自は王女様である。中国経由で入ってきたから、当初のお姿は唐の貴族的で落ち着いた雰囲気を醸し出していた可能性も否定できない。

それがわかるのが、園城寺護法善神堂の本尊の十二世紀の護法善神立像こと、訶梨帝母。[→三井寺]
そして、それとはかなり印象が違うのが、十三世紀前半の訶梨帝母倚像[→三井寺]
ザビエル渡来は1549年で、それよりは随分と前だがマリア像を彷彿させるのが不思議。
天台系は法華経を重視しているからか、鬼子母神法要が大々的に営まれている。千の団子が千人の子に、そして柘榴が鬼子母神に、供養として供えられるのが習わし。そして、堂前放生池に亀を放すという式次第。
智証大師の護法神なので格段の扱いなのだろう。

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