表紙 目次 | ■■■ "思いつき的"仏像論攷 2015.10.5 ■■■ ダルマ像の意義小生の頭の構造だと、ダルマと聞けば、ウイスキーブランドの俗称用語になってしまうが、たいていの人は「起き上がり小法師」の縁起お張子を思い浮かべるようだ。必勝祈願や合格祈願にはつきものと見える。そんな世界から足を洗うと、とんとダルマさんにはご無沙汰になってしまう。その張子ダルマだが、発祥は、高崎の黄檗宗 少林山達磨寺とのこと。高崎は通り過ぎる駅でしかないので、お寺に足を運んだことはない。従って、ダルマというと駅弁のイメージの方が強い。 しかし、今でもだるま市は大勢の人が集まると聞くから、結構、皆さん訪れているのだろう。もともとは、養蚕農家の七転び八起きを願ったもので、1670年代からの風習らしい。ただ、それより古い観音信仰も併存しているそうだ。 東京だと、だるま市で有名なのは調布の深大寺。天台密教の修行地と言われ、白鳳期の仏像を保有する古刹。どういう訳か、ここでの市は桃の節句に挙行される。もちろん御雛祭ではなく、「厄除元三大師大祭」。達磨大師とは直接関係しない。 もう一つ有名なのは、田子の浦近隣の妙法寺らしい。場所的に、当然ながら、富士山信仰のお寺。ご本草も達磨大師ではなく、武家信仰の対象でもあった毘沙門天。それもあるのか、日本では珍しい異国趣味のお寺と言われている。ダルマはその一つということのようだ。隆盛を誇るのは、製紙業が盛んな地だったせい。お張り子がお手の物だった訳で、飾り物としての期待感に応えた作品なので人気が出た模様。 以上、いずれも東日本。 京都では、紙屋川畔に位置する臨済宗妙心寺派正法山法輪寺がだるま寺と呼ばれている。開山1727年なので、京都では極く新しいお寺だろうから、有名になった切欠はおそらく、達磨大師坐像と天井画。奉納された張り子ダルマの数が半端ではない。 こんな話を取り上げるのは、ダルマとは禅宗の開祖達磨大師だからだ。 そうなると、張り子ダルマを仏像と見なしてもよいのでは。 ところが、そう考える人は滅多にいない。張り子だと、あまりに俗だからだろう。 だが、そのような感覚は間違い無く日本ならでは。ヒンドゥー教や道教の像をみれば、それらは、まことに俗そのものだからだ。仏教芸術の対極といえそうな像だらけで、日本のインテリにとってはこれが尊崇対象の像と言われると違和感だらけ。それこそ、映画が始まったころの人気俳優プロマイドをケバケバしくしたような作品なのだから。鄙びた古い仏像を祀るなど、失礼極まるという感覚かも。 小生は、これほどの風土の違いを生みだしたのは、禅宗が拡がったせいと見る。仏像概念が曖昧化してしまったのである。・・・禅寺の仏像群を拝観すれば、それに、気付く筈。密教や浄土真宗と比較するに、(阿弥陀仏像と親鸞上人像、大日如来像と弘法大師像の位置付けとの比較で、) 本尊たる釈迦如来に特段の拘りをもっているようには思えないからだ。(天台の根本中堂の仏像が薬師如来であるという話とは違う。) おそらく、偶像尊崇に大きな意味を与えていないのだと思う。換言すれば、ご本尊意識が希薄ということ。考えてみれば、禅の境地に没入するなら、お側に祖師像があった方が励みになろうから、それは当然かも。 つまり、張子のダルマは、御祈祷対象像と言うより、精神集中が必要な修行を側から力を貸してくれる像なのであろう。そんなこともあって、「願掛け」に用いられるようになったということか。 この「願掛け」、大衆信仰の「ご利益」頼みとは全く異なる訳で、いかにも、日本のインテリ層の好みそうなスタイル。 だからこそ、禅宗は、日本で花開いたのかも。天竺や震旦とはインテリ層の考え方が違う訳だ。・・・カースト制では、境を越えた知的交流はほとんど禁忌に近かろうし、官僚国家だと、科挙をパスする能力の有無で一線が引かれる。インテリとは、あくまでも公的なヒエラルキーで規定される少数派。インテリと一般大衆の間には溝がありすぎる訳だ。 日本の場合、為政者が禅宗普及に力を入れたことが大きいとはいえ、インテリ層は少数であっても、広がりというか、階層横断的に存在していたことが大きかろう。 万葉集の時代に、すでに、防人にも歌詠み可能な人がいたことでわかるが、「天皇家-貴族-僧侶-武士-農家-商家-職人-芸人」といったヒエラルキーを越えるインテリの輪が存在しているということ。 逆に、そこに、禅宗普及の限界があったとも言えよう。 現実の三千世界とは、餓死者や行き倒れだらけだったり、為政者間の熾烈な権力闘争を発端とする戦乱に始終巻き込まれる訳で、そこから離れた所に住もうとするインテリに対する批判は必ず生まれる訳だから。 その辺りの危惧の念は、禅宗到来時からあったと思われる。それがわかるのが、王寺の片岡山 達磨寺の由緒。本堂は達磨大師の墓所の上に建立とされている。これは、聖徳太子飢人御慰問伝説に基づいたものと言われている。・・・奈良時代末編纂書によれば、聖徳太子が片岡山に遊行した際に、飢えて倒れていた人を助けるが、結局後日死去。埋葬したものの、遺骸消滅。太子は残されていた衣服を着用。 太子は、天台宗開祖智の師 南岳慧思の生まれ変わりとされ、それを勧めたのが達磨との話もあるようだ。 考え方によっては、面壁九年で悟りを開いたのだから、達磨教でもよい訳で、達磨大師像をご本尊にしてもおかしくなかろう。現実に、天竺の環境で修行した釈尊ではなく、達磨の修行を見習うのだから。釈尊をご本尊とするのは、菩提達磨が二十八番目の弟子というだけのことだし。 もっとも、その系譜こそが肝かも。弟子となって精進した事実が決定的に重要なのであろう。そうだとすれば、欲しい像とは、達磨師やその高弟であり、生々しいヒト型になる筈。 そうなると、かならずしも立体感ある像より、情景が心に思い浮かぶ絵画の方が嬉しいのかも知れぬ。 ─・─・─禅宗の高僧─・─・─ 【禅宗 or 楞伽宗】 開祖 達磨 -慧可-僧璨-道信-弘忍-慧能-大慧禅師南嶽懐譲-大寂禅師馬祖道一-百丈懐海* & 南泉普願** 【中国黄檗寺】 断際禅師黄檗希運#10* 【中国臨済宗】@真定府臨済院 開祖 義玄#11* 【臨済宗】@建仁寺(南禅寺+京都五山,鎌倉五山) 開祖 千光法師明菴栄西#12* 仏光国師無学祖元 夢窓国師疎石 大燈国師宗峰妙超 【黄檗宗】@万福寺 開祖 真空大師隠元 【中国曹洞宗】@洞山普利院 開祖 悟本大師洞山良价** -雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄-*** 【曹洞宗】@永平寺 開祖 承陽大師道元*** 常済大師蛍山@総持寺 "思いつき的"仏像論攷の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |