認知症予防の極意 たいていはガラガラな電車というのに、どうした訳か満員状態。幸運なことに、二人掛けの窓側座席が1つだけ空いていた。 お隣は、ご高齢の女性だった。 「失礼します。」 「はい、どうぞ。」 会話は、後にも先にもこれだけ。 1時間近く乗っているなら、窓側の方がよさげだが、どうしてか通路側にお座り。空いてなかったのかナとも思ったが、小生のように、窓から外を眺める暇人とは体質が違うようだ。なにせ、お仕事中だったのである。 しかし、そう思ったのは誤解。鉛筆での書き込みドリルに熱中されていたのだ。それを覗き込む訳にはいかないから、内容はわからないが、小学校低学年用の簡単な足し算のようだ。 だが、美麗な手提げ袋から、日経が顔を覗かせており、頭の方はしっかりとしている筈だ。そんな演習がはたして面白いのだろうか、などとしばし考えさせられた。 確かに、意味があるといえばその通りではあるのだが。・・・簡単な読み・書き・計算などを毎日10分程度繰り返して行うと認知症予防に効果があることがわかったとされるからだ。朝来市では、そのための脳ドリル『脳耕』を作成しているほど。「楽しみながら気軽にできる」というふれこみ。 ウーム。 小生には耐え難い代物というか、正直、ご勘弁である。 小生のボケ予防仮説は、この手のセンスとは正反対。ルーチンワーク的と言うか、同じことを繰り返すような頭の使い方をなるべく避けるべしとの考え方。 素人ではあるが、一応、それなりの理屈があるのでお伝えしよう。 ともかく、視力があるなら、「目」を使うのが一番てっとり早い筈。視神経は脳に直結しているからだ。しかも脳の視覚専用部署だけでなく、様々な部位と繋がっている。かなり複雑な仕組みだから、ここを刺激するのがベストだと見る。 ただ、残念なことに、様々な研究が行われているにもかかわらず、未だに、この辺りの仕組みについてすっきりとわかる説明がなされていない。要するに、よくわからん状態。 だからこそインチキ臭い理論が幅を利かせたりする訳だ。しかし、素人からすると、かなりわかってきたナという印象がある。それに基づけば、認知症予防によさげなことは推定可能。 こんな感じ。・・・ 先ずは、視覚器官と脳の関係についての全体観を作り上げておこう。ここが出発点。 全体は4つの仕組みからなると考える。以下、素人用語なのでそのおつもりで。稚拙な表現だから、視覚とは違うカテゴリーの話をしているように映るかも知れないが、そこらはご勘弁のほど。この4つは、互いに深く関連しているが、独立していると見る。ここが重要。 (1) 運動感覚 (2) 意志視点 (3) 行動設定 (4) 環境認識 ともあれ、どれも鍛え続けないと、退化してしまう。そうなると、認知症発症。他にも、引き金はあるだろうが、老化によるボケを抑制するには、コレに対応する必要があろう。 そこで、この構造を考えながら退化防止法を練ることになる。一つ一つ見ていこうか。 (1) 運動感覚とは、無意識に部屋のなかを歩く時に発揮される機能。周囲を見ているような、見ていないような、よくわからない状況だが、どういう訳か問題なく歩ける。高齢化すると、この能力が急劇に落ちる。それは筋力低下もあるが、脳の「見る」能力が落ちているとも言える。従って、「ウオーキング」はボケ予防に重要と考えてよいだろう。 しかし、ルーチンワーク的歩行運動は筋力トレーニングにはなっても、「見る」能力を鍛える効果は期待できまい。頭のなかに描いた図に合わせた運動をするのだから、できあいというか、いつも同じ図を使うのでは、脳の鍛錬になるとは思えないからだ。不規則な凸凹した場所とか、飛び石の上を歩かないと。まあ、少なくとも、段差ある場所を歩く必要があろう。但し、上りではなく、下り。高齢者には転倒の危険もあるから難しいトレーニングかも。でも、それだけの価値はあると思うが。 (2) 意志視点とは、注意を払う対象の設定である。ボケとは、まさに、これを失った状態。なにをしたいのかが、自分でわからないから、視点が定まらないのである。目の前にあっても気付かないのは、何を見たいのかという意志が無いせい。これも、一種の鍛錬である。「見たいモノ」とは、沢山蓄積してきた概念のなかから一つを選んだ結果。これができなくなるとどうにもならなくなる訳である。 この機能を鍛えるためには、なんといっても「自発性」を燃え立たせること。概念を選ぶ必要性を感じなくなれば、概念アーカイブは規模縮小となろう。頭を使っている気になっても、限られた概念だけをいつも使うなら、同じことになる。しかも、探す機能の弱体化一途になりかねまい。ここでの鍛錬は極めて重要である。 自分の楽しいこと、あるいは、どうしてもやり遂げたいことに沿って、新しい概念を生み出す努力をしなければ。長寿がお望みなら、葛飾北斎(1760-1849)や平櫛田中(1872-1979)を目指すのがよかろう。それを怠り、無為にすごしていれば、退化一途だろう。 従って、50からの手習いとしての、ピアノ練習も悪くない。ただ、技術習得型だったり、発表会用課題曲を間違いなく演奏することに注力しているだけなら、効果は疑問。表現欲に裏打ちされた「自発性」なき趣味は逆効果の可能性もあろう。 同じことで、頑張ろう型の「ウオーキング」は、この機能強化にはなりようがなかろう。しかし、やり方が違えば状況は一変する。散歩の途中で、ふと、季節変化の美しさに心を打たれたら、その「美」とはなんだろうとじっくり考えればよいのだ。たったそれだけの話。(情緒に浸るのではなく、自分なりの「感動」の概念を創出できるかが、効果の有無の分水嶺。) ドリルがお好きなら、「このなかで同類はどれですか?」型のパズルはよさげ。自分で分類概念を作る手のものなら、「自発性」なくして解決しないからである。当然だが、考えないと分からないような難しいものでなければ効果ゼロ。 (3) 行動設定とは、例えば、自動販売機に千円札を差し込むような時の話。したいことがあって、視覚情報に基づいて行動するだけの極く単純な動き。(1) 運動感覚と類似に映るかも知れないが、絶対に無意識的なものにはならない点で全く異なる仕組み。この機能が落ちると、注意力散漫になったネと言われがちだが、そういうことではないと思う。 この動き、一見すると、対象を観察しながら、自分の動きを調整する、フィードバック型行動と考えがち。ところが、実はそうではなく、行動する前にシナリオが作られており、それに沿って行動しているのだ。(なにがポイントかと言えば、行動シナリオのイメージをその場で創出している点。) 鉛が入ったコーヒーカップだと必ず落とすことが知られているが、イメージと現実の間に齟齬が生まれるとこういうことになる。見えているコーヒーカップとは、実は、その実像ではなく、すでに頭に蓄積しているコーヒーカップ概念のイメージ像なのである。 従って、視覚情報に対応する概念を的確に選べなくなると、コーヒーカップさえ持つことができなくなる。実像を見て行動している訳ではないから、カップの取っ手の存在もわからなくなってもおかしくないのだ。たとえ、自動販売機に千円札を差し込む行為を知っていても、突然、それができなくなるのは驚くような話ではない。 これは犬や猫の行動でも、見かける症状である。彼らも、遊んでいて、時々失敗することがあるのはご承知だろう。だが、それこそが鍛錬として重要なのではなかろうか。食器を片付けていて、落として割ってしまうことがあるが、それには大いなる意味がある。お財布上はこまるし、掃除は面倒だが、歓迎すべきこと。そこにこの機能向上のトレーニングの原点があると見てよかろう。 (4) 環境認識とは、基本的な視覚活動を指す。眼の光学的な機構がわかっているのだから、認識の仕組みもかなりわかっていそうなものだが、そうは問屋が卸さず状態のようだ。 はっきりしているのは、WhatとWhereについて別々に検討しているという点。おそらく、網膜で得た情報を、キャッシュとして脳に写し取り、そこから色を含めた形情報に落とし込むのが前者で、その形情報に応じたモノ映像を作ると、キャッシュからその大きさと距離感が導きだされるのだろう。それが作られると、時間軸上で、次の網膜情報に更新されても、前と同じモノはそのまま脳の3次元映像に残されることになり、どのように動いたのかが判定されることになる。都合、3タイプの独立情報処理システムが稼動していると見てよかろう。 ここでは、注意力散漫は十分ありうる。見るべきモノに気付くか否かは、キャッシュと脳の蓄積イメージを対照する能力にかかわってくる訳で、蓄積しているイメージの種類が少なければ、それこそ目の前にあるモノにも気付かないことになる。 光学的視力の低下よりも、この手抜きがボケへの道ではないか。新しいものに注意を払う訓練が効果的では。散歩のついでに、スーパーの商品陳列棚を眺めて新商品を見つけるなどは結構よいトレーニングになるかも。あくまでも「気付き」が重要で、新聞で見かけた新製品を探すようなことをすれば逆効果である。従って、好奇心が湧く分野でないと、脳の鍛錬には結びつくまい。 パズルをしたいなら、2枚の絵で違っている箇所を見つける手のものや、ごちゃごちゃ似たモノが混み合っている絵のなかから、指定のモノを探す手のものがよいだろう。言うまでもないが、錯視的なものでないこと。この能力は個人差が大きそうだが、どうなのだろうか。猫族など、明らかに、動く輪郭でモノを認識していそうだし、そこに神経が集中してしまう。動物園で関心を惹きたいなら、そこを理解すれば成功する。これを、自分に当てはめるとどういうことになるかひとしきり考えてから、その観点で妥当そうなトレーニングを始めるのがよいだろう。 と言うことで、4つご説明してきたが、できれば、すべてを統合した形のトレーニングが望ましい。どれが格別重要というものではなさそうだし、どれを欠いても、ヒトとしての認知能力は確実に落ちそうだからだ。 だが、それは結構難しい。おわかりになると思うが、その設計は個人別にしかできかねるからだ。換言すれば、他人の真似はよした方がよいということ。たとえ、ある特定の脳ドリルで効果が明らかとされていてもである。先ずは、その効果発現は、脳ドリル行為そのものによるものか、それに絡む行為の影響かがはっきりしている訳ではないことに注意を払うべきである。ある一定条件の下で、しかも、ある種の同質な文化のなかで生活している人々では効果があったからといって、それを一般化して、自分にも適用可能と考えるのはおよしになった方がよかろうということ。 例えば、ハイキングは上記4領域をカバーするトレーニングとして優れていそうな感じがする。しかし、もともとたいして好きでもないのに、真似したりすれば、逆効果になりかねないということ。それよりは、サッカー練習や、料理作りの方が合っている人が多そう。これらも、やり方によっては絶大な効果が期待できそうだからだ。肝心なのは、「想像力」というか、「創造力」を働かせた活動になっている点。「気付き」の欠片も生まれないようなトレーニングなら避けるのが鉄則ということ。 以上、素人の見方にすぎないが、どんなものかな。 (参考) 脳ドリル『脳耕』について 朝来市 2012年1月26日 健康の考え方−INDEX >>> HOME>>> (C) 2013 RandDManagement.com |