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「我的漢語」
2015年1月25日

咏梅

菅原道真[845-903]の誕生日は3月25日で、命日が6月25日ということで、毎月25日は天神様の縁日とされている。1月は「始め天神」ということで盛大らしい。
前田藩は菅原家出自とされているので、その辺りでは家庭内でも儀式が行われているとか。床の間に天神像を飾りお供えをするようだ。
その天神様の御紋は梅である。
と言えば定番[拾遺和歌集]。・・・
 流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて(@901年)
 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
   主なしとて 春を忘るな

通説でどこまで信用できるかわからないが、初の歌も結構知られている。吾子という名称なので幼名とされているようだ。簪的に頭に挿すならわかるが、自分の頬に花弁とすると、女性的すぎるが。
 阿呼の時代(@5歳)
 うつくしや 紅の色なる 梅の花
 阿呼が顔にも つけたくぞある


もちろん、漢詩も。
  「月夜見梅花」 菅原道真[845-903]@11歳
 月輝如晴雪、梅花似照星。
 可憐金鏡転、庭上玉房香。


頭脳明晰な人だったようだが、詩一本槍だったようである。琴は向かなかったようだし、酒も友ではなかった。
白楽天は三友と楽しんだ訳だが、道真は悲しみにくれるだけだったのかも。慰めになったのは、寄って来る燕と雀とか。
 「詠樂天北三友詩」
白氏洛中集十巻 中有北三友詩 一友弾琴一友酒
酒之与琴吾不知
 :
吾雖不知能得意 既云得意無所疑
 : 

詩友独留真死友
 :
官舎三間白茅茨 開方雖窄南北定
結宇雖疎戸宜 自然屋有北窓在
適来良友穏相依

無酒無琴何物足
 : 

 : 
単寝辛酸夢見稀
山河矣随行隔
風景黯然在路移
平致謫所誰与食
生及秋風定無衣

古之三友一生楽
今之三友一生悲
古不同今今異古
一悲一楽志所之
 (出典) 「日本古典文学大系〈第72〉菅家文草,菅家後集」岩波書店 1966年 #477

この三友とは異なるが、「歳寒三友」がある。松竹梅のこと。宋代から始まったもので、時代的は無縁だが、道真公と言えば、梅であるから、今回は、そこらに触れておこう。
もちろん、漢詩では、「梅」は不可欠の題材である。・・・
 梅花是中国古代文人墨客千年吟咏不絶的主題。
その美しさを愛でるのもアリだが、冒頭の和歌のような意味での人生の酸っぱさを味わう「梅」もあるのではないかというお話。

先ずは、北宋の詩人。枯淡好古の儒学世家である。
 隠居于西湖孤山
 終身不仕
 未娶妻 称為“梅妻鶴子"
要するに、庭に植えた梅と飼っている鶴が妻子のようなものと言うのだから凄すぎ。
  「山園小梅」 林逋/和靖先生[967-1028]
 衆芳搖落獨暄妍、占盡風情向小園。
 疎影横斜水清浅、暗香浮動月黄昏。
 霜禽欲下先偸眼、粉蝶如知合斷魂。
 幸有微吟可相狎、不須壇板與金尊。

少々難しいが、大体の意味は想像がつくのではないか。

引き続いて、漢詩好きには知られている明代初期の早熟な詩人の梅モノ。もっとも、森鴎外時代の方々が好んだということであるから、現代に通用するものかはなんとも。
  「梅花九首 第一首」 高啓[1336-1374]
 瓊枝只合在瑶臺、誰向江南處處栽。
 雪満山中高士臥、月明林下美人来。
 寒依疏影蕭蕭竹、春掩残香漠漠苔。
 自去何郎无好咏、東風愁寂几回開。

太祖を諷刺し、腰斬の刑で39才で絶命。梅には、寂寞感が漂っているのかも知れぬ。

そして、もう一つ。
  「卜算子詠梅」 陸游[1125-1210]
 驛外斷橋邊、寂寞開無主。
 已是黄昏獨自愁、更著風和雨。
 無意苦爭春、一任羣芳妬。
 零落成泥碾作塵、只有香如故。


上記を引用したのは、以下の但し書き付を見て。・・・
  這首詞前有引語:"読陸游咏梅詞 反其意而用之"
と言うことで、真打登場。・・・
  「卜算子咏梅」 毛沢東@1961年
 風雨送春歸,飛雪迎春到。
 已是崖百丈冰、犹有花枝
 也不争春、只把春来報。
 待到山花爛漫時、在叢中笑。

もちろん、どのように観賞するかは、人それぞれ。

注目すべきは、1961年の梅の香という点。ここがミソ。・・・
毛沢東は56年のスターリン批判を目にするや、反右派闘争(知識人撲滅)で対応。これにより、完璧な独裁体制を樹立。そして、58年には原始技術回帰と中華精神論を核として、共産主義万歳というレッテルを貼っただけの大躍進政策を開始。ご存知のように、同時に、家族関係を否定する方向に向けた人民公社化を推進。当然ながら、生産量も質も急激に落ち込むことになる。同時に、現場からは薔薇色の出鱈目だらけの報告が上がってくる訳である。社会は滅茶苦茶。自然災害対処もできず、推定餓死者3,000万人。総人口から考えると、そんなレベルで収まっていたとすれば幸運というところ。
言うまでもなく、スターリンの独裁手段を見習い、批判者の大粛清と相成る。しかし、社会の状況は悪化一途なので、流石に政権維持が難しくなり、62年1月、ついに自己批判。ご存知、劉少奇とケ小平が実権を握ることに。
そこら辺りの、毛沢東の嘆息が詠梅となっていると見ることもできる訳である。

ただ、ご存知のように、道真公のように、そこで諦めの境地にはならないのが、独裁者の独裁者たる所以。解放軍の林彪によって、毛沢東復権が画策されることになる。そして66年勃発の文化大革命により、反毛沢東派粛清と知識人の徹底的撲滅が図られるのである。
凄まじいき梅に込めた情念が、一気に、中国全土を覆った訳だ。

(参照) 梁:「毛沢東因何評價高啓為"明朝最偉大的詩人"」中国共産党新聞網

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