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「我的漢語」
2015年6月13日

仏教徒の遊仙詩感

日本で、道教を正面から取り上げたのは空海だけのようだ。対話討論の戯曲「三教指帰」(796年)で、仏教が儒教・道教・仏教に優ることが示されているのはご存知の通り。小生は、どこかで翻訳を読んだ覚えがあるのみ。
まあ、それはそれとして、漢詩での、道教観を見てみたい。・・・

     「遊山慕仙詩」  空海
  高山風易起 深海水難量
  ・・・
           ・・・
  営営染白黒 讃毀織
  肝裏蜂満 身上虎豹荘
  能鎖金与石 誰顧誡剛強

  蒿蓬聚墟 蘭屐T山陽
  舒如矢運 四節令人僵
  柳葉開春雨 菊華索秋霜
  窮鳴野外 蟋蟀帳中傷
  松柏摧南嶺 北散白楊
  一身独生歿 電影是無常
  鴻燕更来去 紅桃落昔芳
  華容偸年賊 鶴髪不禎祥
  古人今不見 今人那得長

  避熱風厳上 逐涼瀑飛奨
  狂歌薜蘿服 吟酔松石房
  渇澗中水 飽喫煙霞糧
  白朮調心胃 黄精骨肪
  錦霞爛山幄 雲幕満天張
  子普凌漢挙 伯夷絶周粱
  老守一気 許脱貫三望
  鸞鳳梧桐集 大鵬臥風床
  崑嶽右方無 蓬莱左辺廂
  ・・・
           ・・・
  老同黒色 玉鼠号相防
  人心非我心 何得見人腸
  難角無天眼 抽示一文章

  弘法大師撰「校正 性靈集」眞言宗書林 森江藏版 明26.3
    巻一5/45@NDL近代デジタルライブラリー
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819437/5

無常観が強く打ち出されている。人間、誕生から死没まで、独り身でしかなく、まさに電影的な一笑だというのだから。しかも、古き人達は今や消え去り、今いる人だってそうそう何時までもいられる訳ではないと語る。枯淡を愉しむ精神とは程遠い。
そんな無常の世を超越した立場で世界を眺めようとする道教的態度とは相いれないのでは。
要するに、道教の世界とは、「仙」という「虚」での遊びにすぎないのではと言いたげ。慕仙など、真理を追求する我が身にはなんの意味もないどころか、妨げでしかないゾと喝破。

要するに、道教的な遊びを追求してしまうと、それは真の悟りの妨げにしかならぬということ。幻想に浸るより、素食と粗末な庵で、大宇宙を歩くべしとの見解では。

     「遊仙詩七首 其三」  郭璞[276-324](山海経の註者)
  翡翠戲蘭、容色更相鮮。
  榊f結高林、蒙籠蓋一山。
  中有冥寂士、靜嘯撫清絃。
  放情陵霄外、嚼飛泉。
  赤松臨上遊、駕鴻乘紫煙。
  左浮丘袖、右拍洪崖肩。
  借問蜉蝣輩、寧知龜鶴年?


と言うか、道教は中華帝国伝統の呪術的儀式偏重であり、これを「実」なき、「虚」と見なした可能性もありそう。呪術が、原理的に体系化されている密教の方が優れているとの考え方。
と言うのは、素人が考えても、道教が盛んになったのは、宗教家が主導したというよりは、為政者が主導した宗教という印象が否めないからだ。

  以銅為鏡、可以正衣冠;
  以古為鏡、可以知興替;
  以人為鏡、可以明得失。
  聯常保此三鏡、以防己過。

   ── 李世民 (唐太宗)

従って、臣下は、こうなる訳で。

     「七コ舞」  白居易
  七コ舞、七コ歌、傳自武コ至元和。
  元和小臣白居易、
  観舞听歌知楽意、楽終稽首陳其事。
  太宗十八挙義兵、白旄黄鉞定両京。
  擒充戮竇四海清、二十有四功業成。
  二十有九即帝位、三十有五致太平。
  功成理定何神速、速在推心置人腹。
  亡卒遺骸散帛收、飢人賣子分金贖。
  魏徴梦見天子泣、張謹哀聞辰日哭。
  怨女三千放出宮、死囚四百来帰獄。
  翦須焼薬賜功臣、李勣鳴咽思殺身。
  含血吮瘡撫戦士、思摩奮呼乞效死。
  則知不独善戦善乘時、以心感人人心帰。
  今来一百九十載、天下至今歌舞之。
  歌七コ、舞七コ、聖人有祚垂无極。
  豈徒耀神武、豈徒夸聖文、
  太宗意在陳王業、王業艱難示子孫。


当然ながら、「懷仙」の姿勢をとることになり、どうしても通俗的な「仰謁玉皇帝」に陥ってしまう。

     「夢仙」  白居易
  人有夢仙者、夢身升上清。
  坐乘一白鶴、前引雙紅旌。
  羽衣忽飄飄、玉鸞俄錚錚。
  半空直下視、人世塵冥冥。
  漸失郷國處、纔分山水形。
  東海一片白、列岳五點青。
  須臾羣仙來、相引朝玉京。
  安期羨門輩、列侍如公卿。
  仰謁玉皇帝、稽首前致誠。
  帝言汝仙才、努力勿自輕。
  却後十五年、期汝不死庭。
  再拜受斯言、即寤喜且驚。
  祕之不敢泄、誓志居巖
  恩愛捨骨肉、飲食斷羶腥。
  朝餐雲母散、夜吸精。
  空山三十載、日望輜迎。
  前期過已久、鸞鶴無來聲。
  齒發日衰白、耳目減聰明。
  一朝同物化、身與糞壤并。
  神仙信有之、俗力非可營。
  苟無金骨相、不列丹臺名。
  徒傳辟穀法、虚受燒丹經。
  只自取勤苦、百年終不成。
  悲哉夢仙人、一夢誤一生。


言うまでもないが、白楽天は在家の仏教徒である。道教国家の時代だから、そんな雰囲気を感じさせるが、相容れないところは少なくない筈。

なんといっても、詩の魔力には勝てなかった訳で。ハハハ。

     「閑吟 其一」  白居易
  自從苦學空門法、銷盡平生種種心。
  唯有詩魔降未得、毎逢風月一閑吟。

     「閑吟 其二」  白居易
  貧窮汲汲求衣食、富貴營營役心力。
  人生不富即貧窮、光陰易過閑難得。
  我今幸在窮富間、雖在朝廷不入山。
  看雪尋花玩風月、洛陽城里七年閑。


お友達も、その辺りはよくおわかり。・・・白楽天君はイイネ、庭園で悠悠自適なのだから。僕など、未だに役所の建物なかでお勤めだゼ。とても、老荘のような、水の「道」のような超然とした気分にはならんヨ。笑。

     「嘆水別白二十二」  劉禹錫
  水。
  至清、盡美。
  從一勺、至千裏。
  利人利物、時行時止。
  道性浄皆然、交情淡如此。
  君遊金谷堤上、我在石渠署裏。
  兩心相憶似流波、潺湲日夜無窮已。


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