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「我的漢語」
2015年12月28日

忘年会は宋渡来の蜀の慣習では

「忘年会」とは日本組織或機構在毎年年底舉行的傳統習俗らしい。

伏見宮貞成親王[1372-1456]の日記記載が初出とか。・・・
  先有一献。
  其後連歌初。会衆如例。夜百韻了一献。
  及酒盛有乱舞。其興不少
歳忘也。
単なる連歌会ではあるが、酒を飲んで大いに盛り上がって楽しかったから行事化したのだろう。一種の憂さ晴らしと見て間違いなさそう。

台湾にも、公司・團體に「尾牙餐會」と呼ばれる同様な行事があるという。

まるで大陸にはそんな風習なきが如く。
そんなことはあるまい。

実際、蘇軾[1037-1101]の詩に、年末の歳送りの酒盛りが読まれている。宴会が盛んだったからこそ作品になった筈だ。蜀の風俗で奇妙であるとして取り上げた訳ではないのだから。
"至於「饋」盤合、酒簷羊腔、充斥道路。"(周密[南宋]:「武林舊事」卷三晩節物)と言うか、要するにお歳暮が一般化しており、それに付随するように歳別れの宴会も開かれたということではないか。
ともあれ、「別[歳]」と呼ばれる酒盛りの大宴会は誰が見ても忘年会だ。そして、「守」は、除夜は寝ずに過ごす風習をさしているように見える。爆竹驚春同様に夜起千門簫鼓はこの時代に定着したものなのだろう。

  「晩相與饋問、為饋
   酒食相邀、呼為
   至除夜、達旦不眠、為守
   蜀之風俗如是。
   余官於岐下、暮思歸而不可得、
   故為此三詩以寄子由」  蘇軾@1062年
  <其一 饋
   農功各已收、事得相佐。為歡恐無及、假物不論貨。
   山川隨出産、貧富稱小大。ゥ盤巨鯉、發籠雙兔臥。
   富人事華靡、綵繍光翻座。貧者愧不能、微摯出舂磨。
   官居故人少、里巷佳節過。亦欲舉郷風、獨唱無人和。

  <其二
   故人適千里、臨別尚遲遲。人行猶可復、行那可追。
   問安所之、遠在天一涯。已逐東流水、赴海歸無時。
   東鄰酒初熟、西舍亦肥。且為一日歡、慰此窮年悲。
   勿嗟舊別、行與新辭。去去勿回顧、還君老與衰。

  <其三 守
   欲知垂盡、有似赴壑蛇。修鱗半已沒、去意誰能遮。
   況欲繋其尾、雖勤知奈何。兒童強不睡、相守夜讙譁。
   晨且勿唱、更鼓畏添。坐久燈燼落、起看北斗斜。
   明年豈無年、心事恐蹉。努力盡今夕、少年猶可誇。


・・・ゆく年くる年の気分で、豚肉料理と酒が振舞われる全日宴会がくりひろげられたのは間違いあるまい。まさしく、もう帰ってこない旧歳とのお別れのための大忘年会である。

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