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「我的漢語」
2018年7月1日

"仁"字を考える

昔から、"仁"については色々な解説がなされてきた。これだけの研究者も少なくない筈である。

それも致し方ない。「論語」では、至るところに登場するにもかかわらず、どう見てもそれぞれの箇所で微妙に概念が異なっており、"仁"の定義ができかねるからだ。

もともと中国語は、動詞・名詞・形容詞は文脈で判断する言語だから、哲学用語の定義などできかねる訳で、それは致し方ないこととはいえ、恣意的に曖昧模糊としている可能性も感じさせる記述だ。
ただ、他の用語と並んで記載されている箇所があるので、どのようなカテゴリーに属す概念かはなんとなくはわかる。
 志於道,據於徳,依於仁,游於藝。[「論語」述而]

言い換えれば、解釈者の状況に合わせて考えて結構ということであろう。
と言っても、勝手な定義ができる訳もなく、「説文解字」の記述から離れることは難しかろう。
 仁,親也,从人二

要するに、社会的通念としての「相親」と考えヨ、ということだろう。

しかし、この解釈は曲者。

二は算木2本という見方もできるが、数字の2の場合は普通は異なる文字を使う。改竄を防ぐためというが、もともとは貝を矛で切断する文字のように見えるし、その後は貝あるいは鼎の文字改刻を意味していそうだから。
 貳[弐(矛)+貝(or 鼎)]⇒弐[一+弋+二]⇒二

しかしながら、「説文解字」で示される字体は、明らかに"人+二"であり、等同と解釈し「从」と見なすのは当然との論調は妥当に映る。

ところが、甲骨文や金文では、どう見ても"人"が"〓"の上に腰かけた姿。"人+="の字体とはとうてい思えない。
さらに、古文では"千心"[出土品:郭店楚筒]あるいは"从尸"だったりする。
 [千+心]
 [二+心]
 𡰥[尸+二]
  [段玉裁:「説文解字注」@清代]
と言うことで、理由のほどは定かでなないが、白川静は、"ニ"は"衽席(布団的敷物)と推定している。ふっくらと暖かく相思相愛気分に浸たっている情景を表す文字と見たのだろう。
それが、突然にして、しゃちこばった社会道徳としての"愛"の用語に替わったことになる。

はてさて、どう考えるべきか。

(参考) 【白奚】“仁”字古文考辨@「中国哲学史」2000年第3期

─・─・─「論語」より─・─・─<
顏淵 [問仁]
 克己復礼為仁
  自己に打ち克って礼に復帰せよ。
 己所不欲,勿施於人
  自分がされたくないことを、他人にするな。
 為之難、言之得無
  為すことは難しく言葉が滑らかではない。
學而
 孝弟也者,其為仁之本與
  親孝行と上位者を敬うことは、仁を為す上での根本。
 巧言令色,鮮矣仁
 弟子入則孝,出則弟,謹而信,
   汎愛衆而親仁,行有余力,則以学文
子路
 如有王者,必世而後仁
  王者が出現すれば、その後世に仁の世界が到来す。
 [問仁] 居処恭,執事敬,与人忠,雖之夷狄,不可棄也
 剛毅朴訥近仁
雍也
 [問仁] 仁者先難而後獲,可謂仁矣
  先ず難しい問題を処理。その後に実利獲得。それを仁と謂う。
 知者楽水,仁者楽山
  知者動,仁者静
  知者楽,仁者寿
 夫仁者,己欲立而立人,己欲 達而達人
  能近取譬,可謂仁之方也已
  仁者は自己が立ちたいと思えば他人を立たせ、
   自分が達成したいと思えば他人に達成させる。
   仁者は身近でできることを行うが、これこそが仁の方策と謂うべきもの。

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