表紙 目次 | 「我的漢語」 2014年5月20日 「随園食單 飯粥單」を読む「随園食單」は6つの節からできている。最終節は、飯粥單と茶酒單からなる。その飯粥單の記述が凄い。渾身の力を込めて書き上げたのではなかろうか。 それは、「本」なる言葉で言い尽くされている。 (0) 飯粥單 由緒 粥飯本也。 餘菜末也。 本立而道生。 作飯粥單。 お粥とご飯は、「本」である。 お数の菜は、「末」でしかない。 「本」が立ち上がってこそ「末」への道拓く。 そういうことでの飯粥單の部作成。 こういうことを言う人が少なくなった。 そうなると、全文に目を通しておきたくなる。 (1) 飯 【ご飯食の歴史は古い】 王莽云:鹽者,百肴之將。 余則曰:飯者,百味之本。 《詩》稱:釋之叟叟、蒸之浮浮。 是古人亦吃蒸飯。 終嫌米汁不在飯中。 善煮飯者、雖煮如蒸、依舊顆粒分明、入口軟糯。 王莽は、塩を百肴の頂点とする。 我は、飯を百味の原点と見なす。 《詩》では、叟叟と手を加え、浮浮として蒸すのが飯。 昔の人も、蒸し飯を食べていたことを示している。 この手は、出来たご飯に米汁分が無い。 煮るご飯が善いのは、形は蒸しの如きまま。 米粒がはっきり分かれていて、それでいて柔らかくもっちりしているところ。 そうそう、炊き上げ方こそが、ご飯食文化の中核をなしていそう。 日本流は、煮汁を全く捨てず、そのネバをそのまま残すこと。これが美味しいと感じる文化だが、米食地域ではマイナーなようである。 思うに、それは、そのやり方に合った米の品種の生産性が高いからだろう。と言うか、そこまで品種を絞り込んで来た絶え間ない努力の結果。 今や、なんの知識やスキルがなくても、無洗米と電子炊飯技術で、それなりの美味しいご飯が炊けるご時世だが、伝統食文化生活をしてきたなら、本当に美味しいご飯は食べればわかる。伝統的炊飯で味を堪能する余裕を持ち続けたいもの。 【美味しさ担保の秘訣】 其訣有四: 要米好、 或香稻、或冬霜、或晚米、或觀音秈、或桃花秈、 春之極熟、梅天風攤播之、不使惹黴發疹。 一要善淘、 淘米時不惜工夫、 用手揉擦、 使水從籮中淋出、竟成清水、無復米色。 一要用火、 先武後文、悶起得宜。 一要相米放水、 不多不少、燥濕得宜。 秘訣としては4つ有る。 1 米が好いこと。 香稲、冬霜もの、晩生、観音早稲、桃花早稲、よし。 春時にはよく熟させ、梅雨にはざっと広げて風にあて 黴たり発疹的なものが出ないように気をつかっているもの。 2 良く磨ぐこと。 米をとぐのに手間暇を惜しまず工夫すべし。 手で揉んで擦る要領。 使っている水が笊から滴るが、それが清んで、米の色が無くなるまで。 3 次いで、火加減だ。 先に強火で、後がトロ火。 塩梅をはかって上手く炊かねば。 4 米の分量に相当する水量をまもる要あり。 水は多くても少なくても、パサついたり、ベトついたりするもの。 そうなのである。水が十分沁み込んだ時をよく見計らって炊くか否かだけで、味に格段の差が生まれるのがご飯なのだから。勧が優れているなら、用具はなんでもよいのである。 もっとも、そこいらは、電子コントロールの時代と見た方がよいか。 【ご飯不出来は料理失格】 往往見富貴人家、講菜不講飯。 逐末忘本,真為可笑。 お金持ちの家では往々にして、お数ばかり講釈をたれるが、ご飯は気にかけず。 大元を忘れた、本末転倒にして、笑止千万そのもの。 コレ、今でも言えそう。 一番高価な米を購入したところで、いい加減な炊き方をしていれば、今一歩のものでしかない。廉価なお米に味で大きく負けているのにも気付かない訳で、確かに、大笑いである。 【汁飯は回避したいもの】 余不喜湯澆飯、惡失飯之本味故也。 湯果佳、寧一口吃湯、一口吃飯、 分前後食之、方兩全其美。 不得已、則用茶、 用開水淘之、猶不奪飯之正味。 我は汁かけご飯を喜ばず。 ご飯の本当の味が失われる馬鹿げた所作と見なすから。 素晴らしい汁なら、むしろ、汁一口、ご飯一口がよかろう。 前後して食す方が、両方の美味さ加減を全て味わい尽くせよう。 どうしてもと言う場合には、則、茶である。 あるいは、水ぶっかけとし、 ご飯の正味を奪わない賞味の仕方をした方がまし。 炊き立てなら、良質の塩ひとつまみでも、十二分に美味しい。それがご飯。わざわざ湯漬けにする要なしだが、喉越し好きというか、大急ぎで食べるには便利である。 【ご飯だけでも美味しい】 飯之甘、在百味之上、 知味者、遇好飯不必用菜。 ご飯の甘さは、百味を超える。 その味を知れば、好きなご飯さえあれば、お数など不要。 ご飯のじほんのりとした上品な甘さこそが、米食文化の根幹をなすものではないか。噛めば噛むほど、その喜びが増すから、食が愉しくなる訳だ。 (2) 粥 ここの記述にも力が入っていると見た。 【粥らしさとは】 見水不見米、非粥也。 見米不見水,非粥也。 必使水米融洽、柔膩如一、而後謂之粥。 水が見えて米が見えないのは粥ではない。 米が見えて水が見えないのも粥ではない。 必ず、水と米が溶け合い、柔らかく賦状になって一体化せねば。 よってその後初めて粥と言えるのだ。 その通りだ。 朝粥の美味しさは格別。糊のようなものは問題外だが、旨味凝縮の雑炊ではわかりようがない、お米の味を堪能できる訳である。 しかも、米を砥いだ後の放置時間と、水加減さえまともなら、失敗は滅多にないとくる。 ただ、ほんの一瞬だけ、蓋をとって軽く混ぜることは必要である。これを忘れると、底に米が固まっていたりする。 【粥は出来立てを】 尹文瑞公曰:寧人等粥、毋粥等人。 此真名言、 防停頓而味變湯乾故也。 「人が粥の出来上がりを待つことがあっても、 できた粥が人が食べるのを待ってはならぬ。」 けだし名言。 停頓などすれば、味が変わり、湯が乾く。 これを防がねば。 当たり前だよネ。 せっかくの出来立てなのに、その美味しさを賞味しないでどういうつもりなのとなろう。もっとも、日本の家庭には、わざと料理を冷めさせるという、意地悪婆さん体質の人々も少なくないが。 どうしても食べるまでに時間が経ってしまう病院食が不味いと言われる理由でもあろう。 【粥に矢鱈に他のモノを入れるな】 近有為鴨粥者、入以葷腥 為八寶粥者、入以果品 失粥之正味。 最近は、鴨粥に葷腥モノを入れたり、 八寶粥に果物を加えることがあるが、 お粥の正統な味を喪失しておるゾ。 小生は、粥に何を入れようが好き好きだと思うが、鴨葱は菜にしておいた方がよかろう。 甘物化はお米の味がわからなくなるから馬鹿げていると思う。刺激物で一気呵成に喉に流し込むのはさらなり。 【雑穀粥は例外だが】 不得已、則夏用酷、、冬用黍米、 以五穀入五穀。尚屬不妨。 ただ、やむを得ずということもあろう。夏の緑豆や、冬の黍の類。 五穀を混ぜるのだから、この程度はまあいいか。 なんのために他の穀類を混ぜるのかによるネ。不味いと感じながら食べるのはお止しになったほうが正解だと思うが。ことお粥に関しては、良薬口に苦しは当てはまるまい。 【アハハ話】 余嘗食於某觀察家、諸菜尚可、 而飯粥粗糲、勉強咽下、歸而大病。 嘗戲語人曰: 此是五臟神暴落難、是故自禁受不得。 とある機会に会食。そこでの様々な料理は及第点。 しかし、飯粥がお粗末すぎ。 勉強するが如くに頑張ってのみ下したら、帰ってから大病を患った。 そこで人に冗談を言ったもの。 五臟の神がどえらい災難に遭遇した訳だから 発病阻止などとても無理だよ、と。 こういう人のオモテナシは大変だ。 でも、飯粥が一番重要だから、それには全精力を傾けよという指針は真っ当なもの。毎日食べるものなのだから。 (source) 維基文庫 隨園食單 (C) 2014 RandDManagement.com |