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2006.9.4
 
 


ディーゼルエンジン時代は来るだろうか…

 2006年8月22日、ディーゼルエンジン車の記録が塗り替えられた。時速500kmを軽く超えたと聞くと、流石に驚かされる。(1)
 とてつもなく軽量な車での走行とは言え、ディーゼルエンジンの進歩を見せつけたイベントと言えよう。

 ディーゼルはトルク力はあっても、加速性能は劣るとのイメージが出来上がっていたが、この成功で、こうした思い込みも払拭できたかもしれない。
 もともと、ディーゼルはガソリンとは違い、ノッキングしにくい。このため、電子制御技術の高度化により、ディーゼルエンジンが大きく発展していく可能性がある。今迄は、馬力があって、丈夫で長持ちという点がウリだったが、これからは、様々な利点が喧伝されていくことになりそうだ。

 すでに、“ディーゼル車に復権の兆し 技術革新で「環境に優しく」”といったタイプの記事もポツポツ登場してくるようになってきた。(2)
 ディーゼルの良さを、本気で語る人がでてきたようである。
 しかし、今までの経緯を見ていると、日本での普及は難しい感じがする。
 リーダーシップを発揮できない政治では、ディーゼルの良さが生かされそうにないからである。

 環境規制問題での動きを見れば、想像がつく。
 ディーゼルエンジンの耐久性は折り紙つき。これは明らかなメリットだが、政治がそのメリットを生かそうとしなかったから、デメリット化してしまったのである。
 耐久性があるということは、とんでもない昔のエンジンをたいして調整もせずとも使えることを意味する。規制しなければ、黒煙モクモクは避けられないのだ。こんなものを吸い込まされたら、どんな悪影響があるかは、調べなくても自明である。しかし、政治は放置した。
 そもそも、炭素微粒子は反応を活性化させる機能があることが知られており、ディーゼルから出る微粒子がアレルギーの元ではないかとの話は、相当昔から言われていたこと。
 ただ、欧米では、人口が集中する都市部で数多くの大型トラックが走り回るような社会ではないし、交通渋滞もマクロで見ればほんの一部で低速走行は稀。従って、ディーゼル車の排気による汚染は、日本ほど深刻とは言えないから、あまり問題視されていないのである。
 これ幸いと、日本の政治は面倒な対応を避けてきた。なにせ、全国津々浦々に、古いディーゼル車が動いているのだ。規制を導入すれば、所有者や利用者の反感をかう。ビジョン無き政治家が、こうした問題で率先して動く筈はないのだ。

 とはいえ、ようやくまともな環境規制が始まった。

 このような消極的な政治が続く限り、ディーゼルエンジンにメリットがあっても、それが生かされる保証はない。ディーゼルエンジン利用への圧力が高まれば、それに対応して表面的な普及の姿勢を見せるだけに過ぎない。普及の阻害要因があっても、積極的に取り除くこともなかろう。
 この状況が変わらない限り、普及に弾みがつくとは思えない。

 関係者の方々にとっては、こんな話は不愉快かもしれぬが、これが現実ではないだろうか。

 特に、厄介なのは、燃料問題である。

 ガソリンエンジンと違って、ディーゼルは軽油を使う。
 ところが、これらの燃料価格は政治で左右される。それはそれで致し方ないが、問題は、政治の世界には、燃料価格設定に関するルールもなければ、ポリシーも皆無という点。
 要するに、行き当たりばったりなのである。

 こんな状態では、将来に向けた長期計画が立つ訳がない。それに、ガソリン生産を止め、軽油だけ生産することはできないのだ。
 ディーゼル車を増やすということは、今後、ガソリン生産とのバランスをどのようにとるつもりかを決めておく必要があるのだ。何も考えずに進めれば、深刻な問題が発生するだけのこと。
 燃料の見通しも無しに、ディーゼルエンジン普及のアクセルを踏む訳にはいかないということである。

 しかし、これは建前の話で、本当は簡単なことである。
 ここが肝要なのである。

 ディーゼル用燃料をどう供給すべきかは、実は、自明なのである。
 早い話、暖房用の灯油販売を止めればよいだけのこと。この分を、ディーゼル用に回すだけ。灯油を全廃し、天然ガスへの代替を図るべきなのである。簡単極まりない施策である。
 しかし、恐らく、そんなことはできまい。暖房費2倍化の家庭が続出するからである。消費者いじめは許せぬとの大合唱が始まることは見えている。
 油を燃やして暖をとるなど非効率極まりないと正論を語る政治家はでてこないと思う。

 ともかく、燃料価格問題で火がつかないように、できる限り議論を避けるのが日本の政治風土である。

 なにせ、DMEについても、さっぱり話題にならない位だ。検討に値するだけの実証データはようやく揃った筈だが、そしらぬ顔を決め込んでいるように見える。
 触らぬ神に祟りなしといったところだろうか。
 今の技術では、コスト上どうにもならないなら、見切りをつけるべきだし、将来性ありならロードマップを示すべきだ。いつまでも、だらだらと様子見など、貴重な頭脳と時間を浪費する最悪の方策である。

 この程度の意思決定さえできないのだから、ディーゼルを進めるべきかの決断など無理である。様々な人達の顔色を伺い、海外調査を延々続けることになろう。

 話は外れるが、こうした政治体質を変えないと、そのうちえらい目に会うのではなかろうか。

 日本はエネルギー効率が良いと語っているが、おそらく、それは、ミクロの企業活動で効率が良いということ。

 例えば、油をがぶ飲みにする米国の効率は悪い。中国に至っては、効率どころの数字ではない。日本は優等生である。
 全くその通りだが、日本が誇れるのは平時での話。事がおこれば、日本は弱い。油の供給細りへの対応力を考えてみればすぐにわかる筈だ。

 油が無くなれば、中国は石炭増産でしのぐ。環境には最悪だが、背に腹はかえられまい。
 米国は、おそらく輸送用燃料を脱石油でかわす。日本とは違って、消費の過半が輸送用だから、ここに絞り込んで解決すれば十分やっていける。
 しかも、ガソリン代替は、政治的リーダーシップが発揮できれば、短期間で実現できる程度の課題である。解決策の選択肢もいろいろあるから、戦略的に動ける。
 原油不足がはっきりすれば、米国は一気に動くと思われる。

 一方、そんな時、日本はどうするだろう。
 米国同様に、脱ガソリンを目指しても、米国と違い解決の選択肢は狭いし、輸送用燃料消費が圧倒的に多い訳でもない。焦点の絞り込みは難しいのだ。調整に手間取って、右往左往せざるを得まい。なにもできずに、時間だけが経っていくかもしれない。

 ディーゼル普及の話も、同じような文脈で考えるべきだと思う。
 まずは、ディーゼルの位置づけをはっきりさせることから始めないと、すぐに立ち往生しかねないからだ。

 日本の政治体質を考えると、希望も失せかねないが、ビジネスマンが頑張ればそれなりの成果は期待できるかも知れない。

 米国とは対照的である。

 米国は政治的なリーダーシップを発揮することはできるが、国内自動車産業はイノベーション創出力を喪失してしまったようである。
 変革は、海外の自動車産業に頼ることになりそうだ。
 日本の自動車産業が、その大役を果たせればよいのだが。

 --- 参照 ---
(1) http://www.jcbdieselmax.com/html/home.php
(2) 産経新聞[2006.8.21]  http://www.sankei.co.jp/news/060821/kei018.htm


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