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魚の話  2005年4月28日
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あゆの話…

 鮎の宿 おあいそよくて 飯遅し 山口青邨

 全国どの川でも、清流なら、自慢の鮎が住んでいる。
 清流とは程遠い、東京・神田川にも遡上してきて、水が綺麗になったと、都民が大喜びしたことがある。鮎はどこでも人気モノである。
 そして、鮎漁を待ち望んでいる釣り人が大勢控えている。

 釣り人が多いのは、友釣りの面白さというより、新鮮な鮎が欲しい人が沢山いるからだろう。

 鮎は日本人の嗜好に合っているのだ。

 鮎の場合、料理といっても、単なる塩焼きに過ぎない。しかも、一匹だけを、無造作に皿にのせるだけのことである。それ以外は、せいぜいが、蓼酢を用意する位のものだ。余計な手間は一切かけない。
 ところが、この単純さがかえって嬉しさを呼ぶ。

 要するに、美しい形を楽しみながら、蛋白な白身を細手の箸でつまむ美学である。もちろん、新鮮な魚の焼きたてを味わう喜びもある。
 たったこれだけのことだが、一端好きになると離れ難い料理だ。

 塩焼きだから簡単な家庭料理だが、よく考えると不思議である。
 家庭料理にもかかわらず、「焼き魚にご飯」という基本パターンには当てはまらないからだ。余りにさっぱりしていて、ご飯が進む一品とは言い難いのである。
 と言って、コース料理の質を高める類の皿にもならない。
 鮎だけは、一緒に供されても、事実上は別扱い品になってしまうのだ。

 しかも、冷めてしまうと美味しさは完璧に消えてしまう。のんびり歓談しながら、酒のつまみという類の料理ではない。

 従って、鮎の塩焼きの本当の良さを味わいたいなら、焼きたてを、一気に頬張るつもりで食べるしかない。
 たった一尾から醸し出されるほのかな川魚の香りを楽しみながら、できる限り深く味わう訳である。
 そして、食べ終わってから、その余韻で、酒を酌み交わすことになる。
 (もっとも、腹腸を「うるか」用に取り、1合当り2匹程度で炊き込みご飯にするのが鮎宿の定番料理らしい。それでも使い切れなければ一夜干しや、甘露煮の佃煮になる。)

 こんな楽しみがあるから、鮎宿は繁盛しているらしいが、お客の釣果は大したことが無いらしい。最近の鮎釣りとは、釣り人1人当り35匹程度放流された稚鮎(約9gモノで1匹31円位)が一寸大きくなったものを獲るようなものである。
 それでも、結構美味しい鮎が釣れる。有難いことだ。

 ところで、「鮎」という文字は中国では「なまず」を指すそうだ。(1)
 日本では、釣果で戦況を占なっていたようで、鮎が対象だったため、魚偏に「占い」という文字が選ばれたようだ。
 古来から、特別な魚として扱われてきたのである。

 釣り人達の鮎に対する姿勢を見ていると、そんな古代感覚が未だに、現代の日本人に受け継がれているのかもしれないと思ってしまう。

 実際、万葉集では、大伴旅人が松浦川を題材に詠っているが、これは息長足姫の鮎釣り伝説からきたものである。
 普段は忘れているような話だが、鮎の塩焼きを食べるとそうした感覚が突然甦って来るような気になる。

 松浦県に往きて、玉島の潭で遊覧し、贈った歌
   松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ
   松浦なる 玉島川に 鮎釣ると 立たせる子らが 家道知らずも
   遠つ人 松浦の川に 若鮎釣る 妹が手本を 我こそ巻かめ

 --- 参照 ---
(1) 川崎洋「魚の名前」いそっぷ社2004年12月
(2) 上州漁協の例 http://www.kiddy.co.jp/ayunip/gunma_info/joosyu_report5-1.htm

 --- 付録 ---
 鮎飯といえば、フィクションの世界(池波正太郎著「さむらい松五郎」)の話が結構有名である。同心が盗賊仲間と間違われ、話すうちに意気投合し、後日、料理屋の座敷で会うのだが、この会食シーンに鮎飯が登場する。話の方は、固めの盃を交わした帰り道に本物に出くわすといった展開。もちろん、盗賊の本拠地に平蔵が討ち入り制圧するという御馴染みの結末だ。
 醤油の薄味をつけたご飯が炊けた時に、魚肉を一気にかき混ぜる料理法になっている。
  [目黒不動堂と伊勢虎の図会: http://homepage3.nifty.com/onihei-zue/239conts.htm]
 

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