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魚の話  2005年6月10日
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きすの話…

  鱚釣りや 青垣なせる 陸の山 山口誓子

 鱚(きす)と聞くと、夏っぽい印象を抱くのは、釣りの情景が目浮かぶからだろう。海のなかに腰まで浸かって、長くて細い竿をふっている釣りだ。絵になる姿だから、見る方はとても楽しいが、釣り人にとっては重労働だろう。本当に好きでなければ、とてもできそうにない。

 釣師をみかけるから、そこいら中に沢山いる魚かと思ったらそうではないらしい。釣り人に聞いた話なので当てにはならないが、成長が遅いため大漁が望めないのだという。それでも、キスだけを狙う釣り好きは大勢いるそうだ。

 もっとも、そんなことは部外者にとってはどうでもよく、一番の関心は釣果と料理の方である。

 キス料理といえば、なんといっても天麩羅だ。
 身が余りない細身で、癖がなく淡白な味なので、物足りないとも言えるが、揚げものを沢山食べようという時には、最高の魚だ。

 このようなキスの話をしていると、なんとなく天麩羅屋に行こうかという気になる。
 と言っても、不思議に天麩羅屋ならどこでもよい、とはならない。ピンからキリまであるし、薀蓄を語る人も多いから、迷ってしまうのである。さて、どうするかと考えるのも結構楽しいものである。

 そんな時、ちらっと意識にのぼってくるのが、江戸風情である。
 雷門で天麩羅か、という感覚である。

 しかし、観光地の超混雑状態は楽しいものではない。それに、ネタが他より良いという話でもないし、天麩羅屋はどこにでもある。薀蓄を傾けた店もそこここで耳にする。

 そんな時は、下町でも、一歩道を入った店を選ぶのが手かもしれない。もともと、江戸時代は屋台ばかりだった筈だ。火事は怖いし、職人が急いで食事を済ませたいのだから、表店が主流になったのはずっと後のことである。
 従って、明治期に移転した店が本来江戸の伝統を受け継いでいるかもしれない。

 ともあれ、どの店に江戸情緒を感じるかは、好き好きだろう。
 なかには、今時、そんな店など無いと言う人もいそうだ。

 それなら、一寸足を伸ばして、本所は厩橋まで行って船宿というのも趣がある。乗合屋形船で、隅田川、いや、大川を下り、海にでてのんびり揚げたての天麩羅を食すのも一興である。(1)

 こんなことをだらだら述べていると、それほど下町にこだわる必要がどこにあるのかと言われそうだ。

 理由は単純である。天麩羅が、四季の香りを楽しむ、典型的なお江戸料理だったからである。
 従って、鱚の天麩羅だけ食べる食事では魅力は薄い。様々な旬の野菜の揚げたてと一緒に食べるから楽しいのだ。

 もっとも、江戸期のタネは穴子やハゼ、それに、鱚、烏賊、車海老といった海産物が中心で、それほど旬を気にしていなかった可能性もあるが。

 こんな天麩羅の話になったのは、下町育ちの落語家が登場したテレビ番組を思い出したからである。
 中学生の頃、天麩羅屋で「落語家になっておくれでないかい」と祖母に言われたそうだ。(2)
 高齢だから、真打の姿は見れないかもしれないが天国から見れる、と。

 2005年、この中学生は42才である。そして、九代林家正蔵を襲名した。(3)

 正蔵は、まさしく江戸の顔になった。

 天神下黒門町に落語協会(4)があることが象徴するように、江戸の町が落語を育ててきた。その本質は「人情噺」だと思う。この廃れかねない伝統を受け継ぐ人が生まれたことになる。本当によかったと思う。

 「人情噺」のような落語は、せわしない日々を送る人にはとても聞いていられないと思う。余裕なくしては、情緒を楽しむことは難しいのである。

 ぶらりと散歩しながら、立ち止まって眺めることができる下町あってこその、落語とも言える。しかし、そんな街並みと文化が保たれているかという視点で浅草を眺めると、疑問が湧く。

 散歩のついでに寄席に入ったり、江戸情緒を楽しみながら、鱚の天麩羅を食べる楽しみを失いたくないものだ。(5)

 --- 参照 ---
(1) http://www.turisin.net/course.html
(2) http://www.bs-asahi.co.jp/shokuen/guest_05_02.html
(3) http://chuspo.chunichi.co.jp/00/hou/20050322/spon____hou_____008.shtml
(4) http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Kyokai/History.aspx (5) 林家こぶ平著「お江戸週末散歩」角川書店 2003年


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