トップ頁へ>>> |
魚の話 2009年2月27日 |
「魚」の目次へ>>> |
|
おこぜの話…願わくば 「乎古世」を語り 食したし 柳田民俗学に触発され、オコゼ話をしたい人は多そうだ。 氷もそろそろ解けようかという、2009年2月7日、尾鷲市矢浜で“懐から魚のオコゼをちらつかせて「あはは」と大笑いし、豊作を祈る珍しい神事”(1)が行われたそうである。醜い魚を、これまた醜い山の女神に見せるという筋立てらしい。 山の神と海の神のお遣いらしき魚が登場しながら、祈るのは里での豊作という、(2)実に混沌としたシチュエーション。もちろん、山の神にお供えものをして、田の神として降りてもらうという意味だろうが、それに海の神が係わるのだから、なかなか含蓄ある民話である。 高知県香美市物部村の「山鎮め」でも、供えるのはオコゼだ。(3)里の人の、山での仕事始め行事の風情が漂うが、それなら餅と酒でもよさそうに思う。神との宴会に、魚がどうしても必要なら岩魚にしてもよさそうだ。山なのに、海産物が登場するのはいかにも唐突。 だが、そう見えるのは、里の祭と比較してしまうからだろう。おそらく、この祭祀は、山の呪術専門家が執り行う祈祷儀式で、一般民衆は係わらなかったということではないか。 マタギが干物のオコゼを持ち歩くのも、この伝統を受け継いだだけと見るのが自然な感じがする。(4)そもそも、又木(二股に別れている木)とは、呪術道具の名前だし。 残念ながら、そんな伝承は消えてしまったから、今となっては、解明は無理だが。 それにしても、いくら美味しい魚といっても、わざわざ背鰭に猛毒があるような魚をつかった意味はなんなのだろう。不用意に踏んだりすると、とんでもないことになるのは、よく知られている筈だが。 もしかすると、下手に扱えば、祟りがあるぞという、グリーンメール的な位置づけかも知れぬが、なんらかの魂を運ぶ魚とされたのは間違いあるまい。 ともかく不可思議きわまる魚である。 漢字は決まっている訳でもなさそうだし、御伽草子にも「をこぜ」話が登場するそうだから。 --- 参照 --- (1) “豊作願い「あはは」 尾鷲で神事” 読売新聞 [2009年2月8日] http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20090207-OYT8T01197.htm (2) 榎本雅典[尾鷲市企画課企画振興室]: 「まちおこし、点・線から面に 素材は点在、“山の神”もそのひとつ」 月刊地域づくり [1998.3] http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/9803/html/t06.htm (3) “物部いざなぎ流「山鎮め」” Blog 高知のモノ・コト・ヒトカタログ [2006年03月28日] http://mocotyan.seesaa.net/article/15614867.html (4) 「孤高の民・マタギ4 山の神の恵み」 美しき水の郷あきた 秋田・農村の祭と伝統文化 http://www.pref.akita.jp/fpd/matagi/matagi-03.htm [参考1: ウエブ] 「南方熊楠 山神オコゼ魚を好むということ」Blog鬼火〜日々の迷走(やぶちゃん) [2006/09/18] http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2006/09/post_9f60.html http://homepage2.nifty.com/onibi/kumaokoze.html [上記によれば, 冒頭の乎古世は南方熊楠の指摘.] [参考2: 民俗学] 南方熊楠[飯倉照平,他編): 「南方漫筆」 八坂書房 1991年 柳田国男: 「山の神とヲコゼ」 全集8-民間伝承論 筑摩書房 [参考3: 読んでいないので本の内容は不明] 遠藤ケイ: 「おこぜの空耳 山界風聞―願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」 かや書房 1991年 宇井邦夫: 「山の神とオコゼのはなし」 現代フォルム 1996年 山村民俗の会編: 「山の神とヲコゼ」 エンタプライズ 1990 (ヲコゼの漢字) 「騰の馬を魚に」、「さらに月偏を舟か魚に」、「魚偏に天と鬼」、「魚偏に唐」 真名真魚字典 http://www.manabook.jp/manamana-uohenkanji10.htm 「魚」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
|
(C) 1999-2009 RandDManagement.com |