表紙 目次 | 「新風土論」 2015年9月5日 中華帝国最初の天子は東夷夏王朝[B.C.2070-1600年]は黄河流域で考古学的に存在が間違いないと言えそうな最初の国家。建都は陽城[現在の河南省中西部登封の東部]。そこは、五在中國の嵩山[太室]南麓。その後、安邑[後世には戦国七雄の魏国の都城:現在の山西省夏の「禹王城」]や酌鄩[登封の西北部]へ。 考古学的には、河南省偃師市の二里頭遺跡[B.C.1800-1500年]が夏の都に該当するとされている。と言っても、文字記載の出土品が無いし、城壁が見つかっていないから果たして「國」と見なせるか、疑問な点はある。まあ、証拠はなに1つないが、当たっていそうな感じがするというだけ。(龍山"黒陶"文化との関係もはっきりしていない訳だし、) 近辺の二里岡遺跡[B.C.1600-1400年]は青銅器時代のハシリで、こちらも文字が未発見だが殷王朝期の都市であるのは間違いないから、二里頭は殷王朝にに征服された夏王朝の残骸かも。 なんといってもこの遺跡のハイライトは、回廊を有する宮殿の存在。そして、翡翠やトルコ石製の「龍」が出土したこと。 そして、五穀[粟、黍、小麦、大豆、水稲]栽培の痕跡ありとされるのも特筆モノ。 これこそ、中華帝国思想の原初的発現と言ってよいのでは。この王朝はどう見ても土着民(元祖漢族)ではないからだ。異なる政治=経済基盤の異民族渡来王朝なのである。 なにせ、水稲農業が組み込まれているのだから。しかも、遼河流域の興隆窪文化や紅山文化と共通する、天のお遣いたる水神「龍」崇拝がついている。これらが、黄河中流域で生まれたとは考えにくかろう。 水稲栽培の出自は、モンスーン地域たる揚子江中流域の支流が流れる丘陵地域と目される。その地は水量が多いから、排水技術確立がイノベーションだったとおもわれる。それは、技術もさることながら、それに合った統治の仕組みを生み出したことが画期的と言ってよいだろう。そして、その発展形というか、大規模化が実現されたことで、洪水対策としての大型治水技術も生まれたに違いない。その結果が、デルタ地域の大規模稲作地帯開発として結実したと言ってよかろう。水稲経済圏が一気に広がることになり、淮河デルタにまで開発が進めば当然ながら黄河デルタへと進む。しかし、そこは気候的に難しい。デルタから上っても、黄河両岸は山脈峡谷域であり、水田開発余地があるのは先住民の存在する中上流の沿岸丘陵域しかなく、そこで展開する以外に道は無い。 この渡来稲作民のトーテムはもともとは鰐だったと思うが、淮河に至れば、そこの民には理解できない動物と化してしまう。土着の水神のお遣い動物と融合して幻想神化するのは致し方あるまい。その結果が「竜」なのだと思う。 中華帝国の象徴がドラゴンこと龍とされているのは、黄河流域で初の「国家」を樹立した渡来非漢民族夏王朝が竜をシンボルとしたから。 と言うか、司馬遷の「史記」が中華帝国の経典になったからとも言えよう。 夏王朝を樹立したのは、臣下である禹とされる。父の鯀は能あれども治水に失敗したが、その子の禹は偉大なる成果をあげたことが記載されている。 そこで、帝は世継ぎに推挙。ところが、禹は帝の嫡子に地位を譲ってしまう。しかし、結局のところ、諸侯があげて禹の下に集まり、天子になる。中華帝国の最初の天子ということ。 [司馬遷「史記 夏本紀」] (禹之父曰鯀,鯀之父曰帝顓頊,顓頊之父曰昌意,昌意之父曰黄帝。) 當帝堯之時,鴻水滔天,・・・。・・・堯求能治水者,・・・。堯・・・用鯀治水。九年而水不息,功用不成。 堯崩,帝舜・・・。 禹傷先人父鯀功之不成受誅,乃勞身焦思,居外十三年,過家門不敢入。薄衣食,致孝于鬼神。卑宮室,致費於溝淢。陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。左準繩,右規矩,載四時,以開九州,通九道,陂九澤,度九山。令益予衆庶稻,可種卑濕。命后稷予衆庶難得之食。食少,調有餘相給,以均諸侯。禹乃行相地宜所有以貢,及山川之便利。 帝舜薦禹於天,為嗣。・・・三年喪畢,禹辭辟舜之子商均於陽城。天下諸侯皆去商均而朝禹。禹於是遂即天子位,南面朝天下,國號曰夏后,姓姒氏。 帝禹東巡狩,至于會稽而崩。 尚、上記に登場する、夏王朝以前の、司馬遷「史記 五帝本紀」記載の帝王は、考古学的な対応な難しい。・・・【神農】→黄帝→帝顓頊(高陽)→帝嚳(高辛)→堯→舜→【夏王朝】禹 夏王朝樹立以前の記載で注目すべきは、堯の行った処分。禹の父である鯀は東夷とされているからだ。 共工・・・"流"して、幽陵へ[北狄] 驩兜・・・"放"して、崇山へ[南蛮] 三苗・・・"遷"して、三危へ[西戎] 鯀・・・・"殛"して、羽山へ[東夷] 冒頭に述べたように、夏王朝の建都 陽城は崇山の地でもあるが、そこへ"放"たれた驩兜は「南蛮」とされている。首府は中華の地ではないことになる。 天子たる禹が崩御した會稽山は、長江下流域 杭州湾南岸の浙江省紹興にある。その山麓にあるのが水稲栽培が盛んだったことが判明している河姆渡遺跡[B.C.5000-4500年]。海側は舟山群島で、北側の対岸には現代の国際都市上海。 どう考えても、中華帝国初代の天子とは、まぎれもなき東夷出身。後世の「越」ということになろう。しかし、「漢民族」なのである。それこそが中華思想の核心的思想。 ─・─・─夏王朝帝系譜─・─・─ (1:始祖)禹→生前に推挙された益→喪開けに帝位を譲渡された禹の子[世襲制化:「吾君帝禹之子也」](2)啟→啟の子(3)太康【失國】→太康の弟(4)中康→中康の子(5)相→相の子(6)少康→少康の子(7)予→予の子(8)槐→槐の子(9)芒→芒の子(10)泄→「子帝不降立」弟(11)扃→扃の子(12)廑→「不降之子」(13)孔甲【夏王著再興・・・御龍氏】→孔甲の子(14)皋→皋の子(15)發→發の子(16:最後)履癸/桀 (C) 2015 RandDManagement.com |