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「新風土論」
2015年9月11日

野生の思考 v.s. 風土

論攷というほどのものではないが、「風土」を「野生の思考(La Pensée sauvage)」 との対比で考えてみたい。創造性発揮のための頭の使い方を考えると、どうしてもここに行き着くので。

「野生の思考」は同時に出版されたらしい「今日のトーテミスム」とも関係しており、いわば"歴史的批判的序説"との位置付けとされている。もちろん、構造主義を世に知らしめたので有名な訳だ。
ズブの素人からすれば、科学的思考とは異なる思考を示したということで一世風靡した書となる。

一方、「風土」の肝は、"人間学的考察"。環境決定論的著作に映る可能性もあり、日本以外で評価されることは難しいかも。
実は、そう考えた理由を取り上げてみたいのである。著作の方ではなく、読み手の体質の方。

この2つを取り上げるのは、余りに対照的だからだ。

創造性で言えば、「野生の思考」は科学分野的発想であり、「風土」は技術分野的発想に近い。

つまり、前者はまずはモデルありき。それは「野生人」。そんなヒトはおらんぜというのが小生の見立てである。しかし、科学的発想で物事を考えるなら、モデルなくしては始まらない。そういう意味で正当なモノの見方であるのは間違いない。読めば誰でもが、その論理ですべてが氷解した気分になれる訳で質の高さは特筆モノ。
何を言っているかおわかりだろうか。
つまり、措定した"民"のモデルを通して、"人類(人間)"の普遍的な精神構造を明らかにしようとの取り組みがなされている訳である。構造主義だろうが、他のどのような主義主張であろうが、科学的思考とはこの「法則」を探求することが第一義。それは当たり前のこととされる。
もちろん、その「法則」は、疑問が残る「仮説」留まりの場合もあるが、ともあれそれが確定すれば、法則を用いて様々な新しい取り組みを始めることができる。そのあたりでイノベーションが生まれることが多い。そのため、「科学」こそが創造力の根源とみなされがち。ただ、ビジネスにすぐに結びつかないので問題視されてはいるものの、最重要と見られているのは間違いない。(神のご指示を読む行為だから重視していると解説する人もいるが、なんとも言い難し。)
日本の場合はそこら辺りは曖昧にしている。「科学技術」という呼び名にしている通り、法則発見より、法則利用により大きな意味を見出す姿勢だからだ。

この「利用」体質の根源がわかるのが「風土」で展開されているモノの見方。
初っ端から普遍的な思想の法則に取り組まないことを宣言しているような書なのである。つまり、世界にはもともと様々な価値体系が存在することを指摘したい訳。砂漠といった、環境要件の影響は実はどうでもよい。環境をどのようにとらえるかの思索に関心があり、その普遍性を探求するつもりが無いことが読めば伝わってくる。
その叙述姿勢が示唆しているのは、多様な価値体系があってこそ、社会の発展性が約束されているとの思想。
「野生の思考」とは根本的に違うものを描いているということ。単純明快なドグマ追求、言い換えれば原理主義路線、に疑問を感じていると言ってもよいかも。
異質な価値体系が併存するからこそ豊かな世界が生まれると考えているのだと思う。

さて、何故に、創造性の話になるかだが、別に複雑なことではない。
原理主義路線とは、先ずは新しいドグマありき。それが新しい世界を切り拓くとの絶対的信念で進む訳だ。月面にヒトが降り立ったことを「科学の勝利」と高らかに宣言するようなもの。

しかし、それとは違う発想も存在するのである。多様な世界には異質な価値体系が生きており、そこから全く新しい文化が生まれる可能性があるということ。こちらこそが新領域開拓と考えることもできる訳だ。
しかし、それはドグマ探索とは正反対の道を歩くことを意味する。根源的に両者は水と油の関係。
和辻哲郎は「風土」を通じて、この問題を指摘したかったのでは。

その延長で、和辻流に考えると、こんな風に言えるかも。
日本文化論的随筆を読んでいると感じるのだが、中華文化は独自と言うより、壮大なCOPY体系の文化なのでは。そこは天子の差配する社会で。しかも、その天子は様々な民族からやって来る。そして、混交だけでなく、外部文化も天子の一存で即自取り込んでしまう。それが中華たる所以でもあろう。革命的社会であるのは間違いあるまい。
実際、チャイナドレスは蒙古服を気候に合わせたもの以外のなにものでもないし、ほとんどの楽器類は西域由来品にしか見えない。
そんなこともあって、小生など、甲骨文字はオアシス都市の風習がベースにあると見るクチ。火薬も渡来技術ではと勘繰る。なにせ古代中原国家が崇拝したドラゴンは揚子江域からやって来た位なのだ。

同じようにCOPY好きだが、日本の取り入れ方は全く違う。中華文明的に、天子の価値観に基づいた革命的な"ママ"導入も無い訳ではないが、多くは厳しい取捨選択後、換骨奪胎されながら普及する。そしてなによりも特徴的なのは、一旦気に入ると、その後マイナーな存在に陥ってもできる限り維持しようと図る姿勢。

ミクロで異質な価値体系を保とうという訳である。それは、上手くはこべば創造性を生むことに繋がる筈というのが、「風土」思想と考える訳。
と言っても、日本の実態は、ドグマ好きが闊歩している状況。全くの逆。そこらは自覚しておいた方がよいだろう。

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