表紙
目次

「新風土論」
2017年6月18日

白川静流の風土論
─照葉樹林文化─

「酉陽雑俎」と「山海経」に目を通すと、そこではじめて、白川静:「中国の神話」が俄然輝いて見えてくる。
素人が何の気なしに読むと、ファンは別だろうが、"フ〜ンそうかネ"で終わりがちな書だが、色々と考えさせられることになるからだ。

そこには、世の中で人気の文化論に対しての、痛烈な批判が書かれていると言えなくもないからだ。

その1つが「照葉樹林文化論」への姿勢。

もちろん、そんな言葉はひとつも書いてはいない。分野外ということでか、植生についても触れずの書だ。
しかし、白川流のアンチ「照葉樹林文化論」が提起されていると言ってよいだろう。

この文化論だが、今でも人気らしい。
そのコンセプトの核は、文化の中心が雲貴高原にあるというもの。
そこから西太平洋に面する沿岸と島嶼を通じて日本まで文化の流れが来ていると示唆している訳だ。それがことの他嬉しい人達にとっては金科玉条的理屈と言ってよいだろう。
小生は、正直なところ、うんざりしてきた。

よく見かけるのは、醗酵技術のセンターがその地にあり、この流れに乗って日本列島に伝わったとの主張や、モチ性穀類愛好の共通性をうたうお話。
あるいは、歌垣習慣をこの文化圏の特徴とみなす論文も少なくないらしい。
マ、どれもこれも、それなりに愉しいお話であるのは間違いない。

白川静の見方は、随分と違う。学者だけに、「中国の神話」でこの辺りの地域に触れる場合、実に冷ややかな目で見ている。

端的なのは、日本列島の扱い方。そこは、ユーラシア大陸東端に位置する地。文化伝播の視点で見れば、最後に到達する場所ということになる。その事実を忘れるナ、と釘を刺しているのである。
(もちろん、日本列島は受け身の姿勢だけでなく、渡来文化を魅力的に仕上げた上で、大陸への反射板的に、文化の発信元の役割も担っている訳だが。・・・それは、中華帝国が凋落した時代の話ではなく、扶桑樹の不老長寿国への憧れ感を持った頃からの伝統。
もともと、中華帝国は、精神生活まで官僚差配の仕組みが浸透しており、新しい文化を生み出す力は弱い。音楽でさえ、その基底は西域の亀茲楽なのである。
外から魅力的な文化を取り入れ、それを自分達のオリジナルと思い込みたい体質が骨の隋まで浸み込んでいる風土と見て間違いない。だからこそ、中華帝国が成り立つのである。
ついでながら、朝鮮半島は、北部のツングース系民族を除けば、歴史の当初から大帝国圏に属しており、独立した文化圏を形成している訳ではない。全く同じ体質と見てよかろう。)


白川は、実に鋭い用語で、そのような地にある"日本的風土"の特徴を指摘している。

そう、そこは、「文化のふきだまり」なのである。

特に、日本列島の場合は、黒潮漂流を余儀なくされた島嶼の海人や、部族的抹殺を逃れてきた大陸の人々にとってのサンクチュアリーの地でもあったから、そうならざるを得ないのである。(日本人とは雑種ということでもある。)
しかも、モンスーン気候でチマチマした山国的様相を示しているから、棲み分けせざるを得ない。見かけは似ていても、狭いそれぞれの地域毎に環境がかなり異なるので、その場所場所で独自の生活スキルを高める必要があるからだ。それが、吹き溜まりの地として、好都合でもあったと言えよう。いかに異質な人々でも、そんな文化を取り込める余地がどこかに見つかる可能性が高いからだ。
ただ、基底が海人的体質からか、貴種や超人的能力の異人を歓迎していたようで、文化の伝播は早かったようだ。そのお蔭で、文化的一様性の実現は自然体で進んだのかも。

おわかりになると思うが、これに、照葉樹林帯の特徴が見てとれる。
揚子江デルタより若干上流の支流河川湖沼地域も、山がちであり、今では考えられぬが、もともとは似た様な環境だったろう。
だが、そんな地は一般的には魅力的な訳ではない。人間生活の観点での生産力で見れば、極めて低いからである。それが、水耕的稲作開始で一変したのである。照葉樹林帯気候の農耕だが、本質的には、反照葉樹林的栽培であることに注意を払うべきだろう。

従って、主流は照葉樹伐採を進めることになろう。国家的繁栄を狙うなら、森を開墾する方向に一気に進める以外に手はない。しかし、その流れで、その地から蹴飛ばされた部族も少なくなかっただろう。そういう人々は、絶滅を逃れるためにサンクチュアリーを探す以外に手はない。そこは当然ながら、照葉樹の深い森となる。

要するに、白川は、照葉樹林帯とは、「文化のふきだまり」であると看破したのである。
直接的にそう書く訳にはいかなかっただけ。
言うまでもなく、雲南〜貴州の山と谷からなる高原地域に残っている文化とは、他から流れてきた文化の残渣にすぎないのである。そんなところに文化のセンターありと考える訳にいかないのは自明。

にもかかわらず、そんな話が多いのは、植物学者の中尾佐助が雲南に注目したからだろう。その理由は、素人でも想像がつく。
そこには稲の様々な品種が残っていたから。そのような地は他に見つからなかったのである。

ドグマ的には、このような状況だと、そこには稲の原始品種がある"筈"。これは決して、恣意的な推論ではない。ここの気候と地質を考えると、古代稲化石の発見は難しいからである。
(稲の栽培原種が出土しているのは、雲貴高原ではなく、揚子江地域なのはご存知の通り。熱帯湿地型植物であるから、栽培開始の地としてはこちらと見るのが常識的。稲作発祥地は山深い"森"の地で、そこから揚子江地域に伝播してきたと考える人はまずいまい。)

白川発想ならこういったことになろう。・・・
雲貴高原は、稲作「文化のふきだまり」。
当然ながら、他の地域から逃げて来た人々によって、様々な品種が持ち込まれたのである。

そして、「文化のふきだまり」現象のもう一つの特徴はここにある。
官僚的帝国とは違い、サンクチュアリー体質国家の渡来文化導入に伴い文化継承人脈が生まれるのである。その一族にとっては、文化創出者への感謝の念を捨て去ることはありえず、たとえその文化が社会的に不要とされて衰退したところで、消え去ることにはならない。為政者の意向に合わなくても、隠れた形で残渣がいつまでも残ることになる。
帝国では消滅していても、「文化のふきだまり」の地には残渣が残っているのである。これは、言語(方言語彙)分野ではよくある現象でしかない。

これこそが、照葉樹林文化の本質。

(参考) 白川静:「中国の神話」中央公論新社 改版2003年[初出1975年]

 (C) 2017 RandDManagement.com